川上恵(沙羅けい)の芸術村 | ||||||||
エッセー | 旅 | たわごと | 雑感 | 出版紹介 | ||||
修行僧 雑草という名の植物はない、と、植物の専門家から注意をされたことがある。 なるほど、物にはすべて名称がある。 しかし、ここはあえて雑草と呼びたい。 暖かくなり、我が家の狭い庭には、雑草が所狭しとはえだした。 母がいたころは、草引きは母の役目だった。有難いことに母は草引きが嫌いではなかった。 母が亡くなったあとは、夫が草引きの担当となった。 ところがである。夫は膝が悪くなり、しゃがみ込めなくなった。 仕方なく、順番は私に回ってきた。 いやいや草を抜いているせいか、なかなかはかどらない。 苔のように地面に貼りついた草の抜きにくいこと、抜きにくいこと。 この草はパス、とその場をはなれかけた。 その時ふと、永平寺の修行僧の姿が頭に飛び込んできた。 彼らは1本の草も見逃すまいと、地面にひざまずき、なめるように庭の掃除をしていた。 修行である。 修行僧にとって座禅はもちろん、掃除も、食事も、入浴も、すべてが修行なのだ。 「そうだ!」 修行だと思えばいいのだ。川上道場で修行をしているのだと。 今や禅寺で、体験修行のある時代だ。 知人などは、1週間も禅寺へ修行に出かけたというではないか。 そう思えば自宅で修業とは、手間が省けるというものだ。一挙両得だ。 人間とはげんきんなものだ。いや、私がだろうか。 永平寺の禅僧を思い描きながらの草引きは、けっこうはかどり、おまけに丁寧な 作業となった。 食事を作るのが嫌な時は、禅寺の食事係の典座(てんぞ)になろう。 掃除が嫌になったら、寒い冬に裸足で、冷たく長い廊下を拭いている修行僧を…… はてさて私の修行僧ごっこはいつまで続くだろうか。 おかげで、庭はさっぱりと美しくなった。 2024.5.14 |