川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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            幸せな日だった



   母の墓参の帰り道、久しぶりに散歩をしたくなり、上ノ太子駅で車から降ろしてもらった。
   次の駒が谷駅まで、竹内街道を歩きたくなったのだ。
   線路を北側に渡れば、集落を歩いて目的地までそう遠くはない。
   けれども今いる地点は、駅の南側だ。
   まあ、いいか。線路沿いに行けば大丈夫だと、楽観的な私は歩き始めた。

   だが、1つ大事なことを忘れていた。
   方向音痴だということを。それも並外れて。

   あれっ、線路から離れていくなあ。
   近鉄電車の架線が、どんどん遠ざかってゆく。
   やがて、見知らぬ道に出てしまった。
   こんな所で迷子になるか、と我ながら呆れていると、前から自転車に乗った学生がやってきた。

   「すみませーん、この道を真っ直ぐ行けば駒が谷駅につきますか?」
   少年は自転車を止めて、
   「うーん。道がややこしいから、僕が送っていきます」
   気の毒だからと辞退する私に、それでも少年は自転車を押して道案内をしてくれる。

   高校生時代の息子と歩いているような、懐かしい感覚にとらわれる。
   爽やかさをまとった少年は、私より頭ひとつ背が高い。
   彼は高校1年生で、陸上の選手だと言う。
   中央大会まで行ったこと。いまちょっとスランプだということ。
   私は、ふんふんと聞いている。

   「もうこの辺で結構です。貴方も忙しいでしょ」
   「大丈夫です。それよりずっと歩きっぱなしだけど、大丈夫ですか?」
   と私を労わってくれる。さすが男の子だなあ……。
   優しいね。
   自転車を押した少年と私は、葡萄畑を歩いてゆく。
   やがて向こうの方に、見落としそうな駅舎が見えた。
   それでも少年は、駅までついてきてくれた。

   小さな駅前で私は少年と別れた。
   私は名前を聞かなかった。学校も聞かなかった。なぜかそれが相応しく思えた。
   透き通った善意を、透き通ったままにしておきたかった。
   別れ際に、
   「これから陸上競技は今まで以上に熱心に見るね。影ながら応援しているからね。
   スランプはきっと抜け出せるから。本当に有難う!」とだけ言った。
   少年は、
   「ぼくも良いことができて、よかったです」と、はにかみながら笑った。

   私は脳裏にもう一度くっきりと、少年の面影を刻み付けた。
   いつの日か彼が活躍した時に、あの日の少年だと分かるように……。

   
                     2018.12.18