川上恵(沙羅けい)の芸術村 | ||||||||
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メリケン波止場 神戸の病院からの帰り道、検査に疲れてぼんやり車窓から外を眺めていたら、 「メリケン波止場」という、道路標識が見えた。 メリケンパークではなく、メリケン波止場という文字に、郷愁を覚え、 私は急に「海側に回って」と、夫に頼んだ。 メリケンパークの標識なら、たぶん私は港へは行かなかった。 波止場の近くに米国領事館があったことから、「アメリカン」の原音発音の「メリケン」 と呼ばれるようになったそうだ。 なんとも異国情緒を感じさせる名称だ。 子供の頃、アメリカは遠い遠い憧れの地、豊かさの象徴だった。 「パパはなんでも知っている」「名犬ラッシー」「うちのママは世界一」……。 テレビで、金髪の少年が大きな冷蔵庫から牛乳を取り出し、ラッパ飲みをするのをみて、 びっくりしたものだ。 メリケン波止場は1868年の開設だ。 波止場近くのレンガ造りの建物の前で、1クラスずつ白黒の集合写真を撮ったのを 覚えている。 確か小学校高学年の遠足だった。 前列の中心に校長先生と担任の先生。そしてリュックを背に水筒を肩に掛けた生徒たち。 みんな真剣な顔でカメラを睨むように見つめ、歯を出して笑っている子はいない。 アメリカの子供に比べて、ずいぶん貧しかった。 あの写真の場所はどの辺りだろうと、しばらく探してみるが、波止場の様変わりは著しく 昔を見つけることは出来なかった。 波止場の西側が埋め立てられ、名称も「メリケンパーク」と変わった。 ありふれた名称だなあ。 神戸港と同時期に発展した横浜港も「「メリケン波止場」と呼ばれていた。 赤い靴を履いていた女の子が、異人さんに連れられて行った港だ。 メリケン波止場にはさまざまな物語がある。 広い海を眺めていたら、半世紀以上も昔がさざ波のように押し寄せてきた。 2021.3.3 |