川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                  蚊取り線香



   蚊取り草が枯れた。
   アスパラの葉のような、人参の葉のような、柔らかな糸めいた葉が無残に茶色になっている。
   日当たりが良すぎたのかなあ。
   少しは蚊の退治をしてくれたの?  
   私は嫌味を言ってみる。
   
   「今年の夏は蚊が少なくて、出番がなかったんです。
   たいした働きもせず、毎朝、冷たい水をご馳走になるのも、なんだか気が引けて。
   なので、この辺で失礼します」
   蚊取り草がそう言っているかどうかは別として、蚊も人間同様暑さに弱いと知り、妙な親近感を
   覚えた。


   息子が赤ちゃんの頃のことだ。
   私は頼りない母親だった。
   予防接種も受けられない病弱な息子に、私は神経質の塊という情けなさだ。
   息子が泣けば、私も一緒に泣いた。1日中、ハラハラオロオロしていた。

   その夏は日本脳炎が流行した。
   コガタアカイエカがウイルスを媒介するという。
   息子を幼児用の蚊帳に入れ、私は1日中、蚊を殺して回った。
   殺した蚊をじっと眺めては、縞模様がないかどうかを確かめた。
   そして夜ともなれば、部屋を閉め切り、蚊取り線香を炊いた。
   煙で部屋中がもうもうと煙っても、私は線香をたくのをやめなかった。

   次の日、息子は高熱を出した。
   慌てて医者に連れて行くと、初期の肺炎だった。
   あまりの喉の赤さに、医者から理由を聞かれた。
   医者からひどく叱られたことは言うまでもない。

   赤ちゃんは一寸したことで、すぐに命を落とすのですよ。
   お母さんだけが、頼りなのですよ。
   あなたがしっかりしないで、この赤ちゃんはどうなるんですか。
   もっと、しっかりとした母親になって下さい。

   蚊取り線香をみると思い出す光景である。
   
   懲りているはずなのに、いまでも蚊取り線香を炊いている。
   無臭の蚊取り器も置いているが、気がつくと、線香の渦を折らないように外しているのである。
   まるで、型抜き飴の周囲を外すように。

   息子は47歳である。つくづく有難いと思う。
   私達はついつい、いま在ることが当たり前のように思ってしまうが、本当は、
   有ることが難しいのだ。
   
   枯れた蚊取り草、今日、始末しようと思っていたけれど、明日にするわ。