川上恵(沙羅けい)の芸術村
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                      観月亭



   「大阪には国宝の仏像が4躯あって、そのどれもが河内におわすのよ。
   それも南河内の藤井寺市に2躯と河内長野市に1躯、そしてもう1躯は北河内の交野市」
   と、つい最近まで、歴史好きの友人たちに自慢げに話していた。
   いかに河内という地が古くから開けていたかの証拠よ、と講釈をつけて。
   「へえー、ほんとに。河内がねえ」
   一様に、彼や彼女たちは驚きの声をあげた。
   
   ところが平成29年9月、国宝の仏像の数はに5躯となった。
   天野山・金剛寺の金堂3尊像である、本尊の大日如来坐像と脇侍の不動明王座像・
   降3世明王坐像が、新たに認定されたのだ。ヒノキやカヤ、ホオの木造である。
   大日如来像を中尊とした3尊が金堂須弥壇に安置されている形は、他に例をみないそうだ。
   平安時代の作である金色の大日如来は、優美で荘厳で、おのずと首をたれさせる威厳を
   漂わせている。
   火焔光背を背負った2躯の明王は、憤怒の形相で、ふとどき者はいないかと
   我々をにらみつける。頼りになる脇侍である。

   河内長野市の金剛寺は、奈良時代(729‐749)に聖武天皇の命により、行基によって創建され、
   平安時代には、弘法大師が修行した由緒ある寺である。
   その後ながく荒廃していたが、再興後は弘法大師をお祀りし、女性も参詣できたことから
   「女人高野」とも呼ばれている。

   境内を天野川が流れ、その渓流沿いに坊舎が建ち並び、清流には石造りの橋がかかっている。
   チロチロと、心地よいせせらぎの音。清々しい空気。
   周囲を小高い山に囲まれた小さな聖地。
   一瞬、ここが大阪だとは忘れてしまいそうだ。

   金剛寺は様々な貌を持っている。
   秀吉もめでた「天野酒」。白洲正子さん絶賛の「日月山水図屏風」、そして天野行宮。
   南北朝時代、後村上天皇は6年間、この地で政務を行った。天野行宮天野殿である。
   同じころ、北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と、直仁親王の御座所でもあった。
   敵対関係の南北両朝が、同座していたのである。
   どんな日常だったろう。
   夢想壁のある私は、稀有な運命の2人の天皇の日々を想像する。
   
   境内の見晴らしの良い所に、観月亭がある。
   山紫水明の天野は、さぞや月が美しかったであろう。
   自然は人を優しく大らかにする。

   「今宵は15夜、まこと天野の月は美しいのお」
   「いかにも、世間では南朝だ北朝だと煩いことでごじゃりますが、この神々しい月の下では
   無粋でごじゃりまするな」
   「ほんに、ほんに。今宵のささは、また格別でござるな。おお、朱塗りの盃に月が
   浮かんでおるわ」
   「飲み干しなされませ。月を飲むと永遠の命を授かるそうでごじゃります」
   「それなら、光厳さまも月を飲みなされ。われら共に永遠の命を賜りましょうぞ」
   「それは、結構なことで。ホッホッホ」
   天野川のせせらぎ、木の葉ずれの音、観月亭を包み込む青白い月光……。
   夜の草むらでは秋の虫が鳴いている。
   
   私の支離滅裂な想像は果てしなく広がり、2人の天皇の酒盛りは果てることがない。
   

   春の桜、夏の蛍狩り、秋の名月、冬の雪見……。
   南朝の魔尼院と北朝の観蔵院、背中合わせの院の玉座に座した2人の天皇は、
   それらを楽しんだであろうか。立場を離れ、一緒に楽しんだだろうか。
   南北それぞれの行在所には、当時のままに御簾の奥に玉座が残されている。
   どちらも、そう豪華な玉座ではない。

   だが北朝が座したのは4年である。足利氏の内紛が収まり京に戻れることになったのだ。
   一方、南朝方の天野行宮は、後の長慶・後亀山天皇と、30年もの間続いたのである。

   あれっ、国宝の話が行宮の話に変わっている。話を戻そう。
   河内長野市のもう1躯は、観心寺の如意輪観音。藤井寺市では葛井寺の11面千手千眼観音
   と、道明寺の11面観音菩薩。そして交野市の獅子窟寺の薬師如来像である。
   因みに「日月山水図屏風」は重要文化財である。

   まことに河内は普段着の下に、さりげなく絹物をまとったような地域だ。
   
   

                            2018・5・26