川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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            選ばれた人



    最近私はすこしナーバスになっている。いいや、大いにである。
    Sさんの去り際があまりに見事だったせいだ。
    病院のベッドにいる時ならいざ知らず、死の影も予感も全く見えない時に、友人たちに
    「さよなら」を言っておくなんて、なんて律義なんだろう。
    なんて天晴な人生の幕引きだろう。

    突然死をした母もそうだった。
    死の3日前、視力のほとんどなくなった目で、私の声のする方をじっと見つめて、
    「めーちゃん、さよーなら。ありがとう」と、車の窓から大きく手を振ったのだった。
    
    神様の計らいに違いない。

    真正直に、真摯に、一生懸命自分の人生を生きた人への、神様からのプレゼント。
    愛しい人や大事な人に、自分の人生と関わってくれたことに対する「ありがとう」と、
    「じゃあ行くね、楽しかったよ」の、有難うを込めた「さよなら」を、言わせて下さるのだ。
    美しい句点の打ち方。人生の見事な締めくくり。

    どれだけの人がお礼と別れの言葉を口にして、礼儀正しく旅立てるだろうか。
    私は夫や息子、弟や義妹、甥、そして友人たちに、「ありがとう」と「さよなら」を
    言えるのだろうか。
    神様に選ばれる自信のない私は、ナーバスにならざるを得ない


    昨夜、息子にSさんや母親の話を聞かせた。
    「Sさんは何歳やったん?」
    「私と同じ歳」
    「……」

    息子の帰り際、「さよなら、ありがとう」と、おどけて言ってみた。
    息子は横を向いたまま、聞こえない振りをした。
    私の胸は熱くなった。


                     2019.6.3