川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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              ダム湖の磨崖仏


   急にダムが見たくなった。
   思い立ったら、聞き分けのない子供だ。
   奥河内、あるいは河内の奥座敷と称される河内長野市の滝畑ダムに行くことにした。
   滝畑ダムへは久しぶりである。
   こんなに山深い場所にあったのかと、奥座敷の形容もまんざら大袈裟ではないなと納得する。

   真夏の、しかも気温が35度を超すダムサイトに人影はない。
   焼けつくような太陽が湖面に照り付けている。
   私はダム湖の底を凝視する。
   「湖底に沈んだ家が79件……」
   生活の場を捨てなければならなかった人達に思いを馳せるとき、私には老若男女の笑い声が、
   話し声が聞こえてくる気がする。
   追いかけっこをする子供たち、喧嘩をする子供たち、それを叱る母親、笑って成り行きを
   見守る老人、犬の吠える声……。
   そして、“学校橋”という名の吊り橋。
   
   滝畑ダムは、大和川水系石川上流の河内長野市滝畑に造られた、治水・灌漑・水道用水
   のための多目的ダムである。
   昭和48年着工で、57年の完成である。

   湖面に風はそよりとも吹かない。頭上を烏が飛んだ。羽音が聞こえる。

   烏の気配を気にしながら、ダム上通路を少し歩いてみる。
   ダムの高さは62メートル、通路の長さは120メートルあるらしい。
   湖面と反対側を覗き込んでみるが、残念ながら放水口は見えない。
   放水時はさぞ迫力満点だろうなと、頭を上げた上げた拍子に、目の前の崖に何かが見えた。
   「あれっ、なんだろう?」
   目を凝らすと磨崖仏だった。頭の形から、地蔵菩薩のようである。

   注意して辺りを見回すと、通路の縁に小さな張り紙がしてあった。
   【大正末期から昭和初期にかけて、河内長野市在住の方がひとりで、安全を祈願して山の岩肌に
   直接、地蔵像・観音像を彫刻しました】

   だが残念ながら観音像は風化が著しくて、定かではない。
   線彫りの観音様の所々が消えてしまっているのは、なんとも痛ましい。
   
   当時、高野山へと通じていた付近の山道はとても峻嶮で、多くの人が命を落としたそうだ。
   それに心を痛めた、郵便局長だった夏目庄吉さんが、6年の年月をかけて2体の磨崖仏を
   彫り上げたという。
   鎮魂と、道中の安全への切望が、氏を駆り立てたのだ。
   それとも、もう1つ、自分だけの願かけがあったのか……。
   
   伝説によれば、滝畑の村は平家の落人の郷だとか。
   源氏に見つからないようにひっそりと暮らしていたせいか、それが習い性となり、目立たぬ
   暮らしぶりを良しとした。男の子が産まれても、5月の鯉のぼりも立てなかったという。
   ダムのある村はいくつものドラマを有している。
   
   湖底に沈んだ村、1人で磨崖仏を彫る老人、平家落人の郷。
   奥河内・滝畑周辺は、ひそやかさと優しさが、静かに脈々と続くところであるらしい。

   そして私には、
   ダム湖の磨崖仏は、ダムに沈んだ村を見守っているように思えてならなかった。
   

                       2018・7・17