川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                              父の外出  

                              
 
     30年ぶりの再会は、ドラマのワンシーンのように、涙の抱擁とはいかなかった。
     玄関先で、私と父は黙ったままぼんやりと、突っ立っているだけだった。
     ひどく間の抜けた空気が、気恥ずかしげに漂っている。
     嬉しいとか懐かしいとかの感情が、わきあがってこないのが、不思議だった。
     目の前にいるのは、見知らぬ老人だった。
     私の知っている父はもっと若かった。もっと大きかった。

     「めえちゃん……」
     先に声をかけたのは、父だった。
     「めえちゃん、えらい大きなって。これやったら道でおおても分かれへんな」
     と、子供の頃の呼び名で私を呼んだ。その声は少し震えている。
     「こんにちは」。私は間の抜けた返事をした。

     とっさに口から出た言葉は「お父さん」でもなく、「久しぶり」でもなく、40過ぎの大人がいうには
     不釣合いな、子供じみた挨拶だった。そして、私はぺこりと頭を下げた。
     父もぺこりと頭を下げた。

     部屋に上った父は、ゆっくりを辺りを見回し、
     「めえちゃん、よかったなあ。幸せそうで。えらい苦労かけたな」と、言った。
     「うん」と私は返事をした。
    
     だが目の前の老人と私の知っていた父は、なかなか同一人物にならない。
     私は内心うろたえた。
     私の知っている父に、早く会いたかった。心を通わせたかった。
     『そうだ! 煙草』 
     私は父の前に灰皿を置いた。
     父は一瞬困ったような顔をし、「情けないなあ、煙草も吸えん体になってしもうた」と呟いた。
     「煙草、吸われへんの? 私、煙草の匂い嫌いじゃなかったのに……」
     
     私の知っている父は、煙草好きだった……
     煙草の匂いのしない父は、別人のようで寂しい……
 

          ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

     
     煙草はピース。
     ライターは持ち重りのするジッポ。
     そんなに裕福な暮らしぶりとも思えないのに、手首には金張りの腕時計。
     当時、父親は30歳の半ばぐらいであったろうか。
     お世辞にもハンサムとは言い難い顔立ちであった。
     広い額にあぐらをかいた鼻、ゲジゲジ眉の下の眼は金壷眼で、少し目尻が下がっている。
     だが笑うとその面相は一変して、人懐っこく可愛げのある顔になるのだった。

     そしてどこか子供っぽく、友達の父親に比べ遊び人に見えた。
     革のジャンバーをはおり、チョウカを履き、時々はいきがって黒いサングラスをかけていた。
     それはどう贔屓目に見ても、似合っているとは思えない。

     父のあだ名は“機関車”
     べつに力が強いわけでもなく、頼りがいがあるからでもない。常に鼻から煙を出しているのだ。
     煙草は両切りの缶入りピースと決まっていた。
     1日に1缶以上は開けていただろうか。
     缶を開けるとき、決まって私を傍に呼び言うのだ。
     「めえちゃん、ええ匂いやろ。他の煙草ではこんな甘い匂いはせえへんで」と、
     目を細め鼻孔を広げる。
     小学生の私は父を喜ばせたくて、なんやしらんけどいい匂いと答えた。

     缶のデザインはすっきりと美しい。
     紫がかった紺地に金色の鳩が首を傾げ小枝をくわえている。小枝には葉が3枚ついていた。
     そして白抜きで、PEACEと横文字が入っている。

     「ピースって、どういう意味?」
     「平和。鳩は平和の鳥。めえちゃんも人にいけずをせんと、仲ようしいや。女の子は大人になっても
     可愛がられんとあかん。お父さんは、めえちゃんには可愛げのある女の人になって欲しいな。
     これは勉強より、よっぽど大事なことやで。覚えとき」
     大人に言うようなことを、小学生の娘に言ってきかせ、天井にむけて煙をはいた。
     そして得意げに、
     「見ときや。電気の下にドーナツみたいな、輪を作ったるから」
     頬を膨らませ、口の中に煙をいっぱいため、唇を尖らせながら、ゆっくり煙を吐いていく。
     何度目かに、いびつな形のドーナツが、天井の桟のあたりで揺らめいた。                                            
     そんな父は、この上もなく妹思いであった。母が嫉妬するくらいである。
     6歳違いの妹は、透き通るような肌の、美しい人だった。
     ただ、喉の病気のせいで顔に似ずかすれた声だ。甲状腺の疾患で、喉の辺りが腫れている。
     そのせいか、もうすぐ30だというのに、まだ一人身だった。
     父はそんな妹が気になって堪らず、手術を受けさせることにした。
     日本で1番の名医をと、あちこち探し、どこから聞いてきたのか、九州の医者に決めた。

     大阪から九州まで夜汽車で8時間。
     汽車が大阪駅を発車するや、父は間を持て余し、ピースの缶を開けた。1本、2本……。
     ふと前を見ると、40がらみの男性も、父に負けず劣らず煙草をすっている。
     『しかし、よう吸う奴やなあ。機関車みたいやな。よし、こうなったら負けとられん』
     子供っぽい父は、また1本取り出して、自慢のジッポのライターで火をつけた。
     ライターは手にずっしりと重い。
     すると、相手も父に負けじと、徳用マッチをするらしい。

     周囲の乗客たちが寝静まった車内で、汽車が九州につくまで勝負は続いたそうだ。
     煙草の煙は目に染みるは、舌は、いがらいはで、最後はお互い意地で吸いあったという。
     「引き分けや。しかし、よう吸う奴やった」
     降りる時、その人は父親の顔を見て、にやりと笑ったそうだ。父も笑った。
     「俺も頑張ったけど、彼奴もよう頑張った」
     そんな事が自慢になるのかと、私は不思議だったが、男の人って子供みたいだなと可笑しかった。

     そして妹の手術は無事に済んだ。

                                                          続く