川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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      季刊誌として16年余り発行された「蔕文庫」は、2017年に終刊となりました。
      蔕文庫に掲載していました「河内再発見」は、今回で終了です。
      次回からは字数に縛られない、新・河内再発見をお届けしたいと思います。
     
           河内再発見

                    河内発の蔕文庫
 

   最終号だというのに、いや最終号だからか、書くことがまとまらない。
   頭の中は我が家のように、散らかり放題である。
   締め切りは2日後なのに、まるでからまった毛糸状態。

   ええい、ままよ!
   ここは畏れ多いが兼好法師をまねて、心に浮かんだことを取りとめもなく書くしかない。

   子供の頃のあだ名は、弁慶ガニだった。
   四角い顔に広い額、低い鼻に小粒な目。
   ある日私は、襖の向こうで近所の小母さんたちが話しているのを、聞いてしまった。   

   「めえちゃん、可哀想にな。あれでは弁慶ガニや。弟はあんなに色白で可愛らしいのに」
   「ほんまに。世の中思い通りにはいかんもんやな」
   河内の小母さんたちは、陽気であけすけで、容赦がない。
   私はそっとその場を去った。
   大人は子供が傷つくことを知らないのだ。たぶん大人以上に傷つくことを。

   その夜、私は父に聞いた。
   「お父さん、弁慶ガニの弁慶って、あの牛若丸の家来の弁慶?」
   「そうや、なんでや急に」
   「ううん。なんでもない」
   「カニってよう見てみ。可愛い顔してるで。大和川にもいてる。こんど捕りにいこか」
   そういいながら、私のおかっぱ頭をなで、
   「めえちゃんのおでこは、ええおでこやな。脳みそがいっぱいつまってる証拠やで」

   勘のいい父のことだ。急に元気のなくなった娘を慰めたのだ。
   頭を撫でられる安心感、心地よさに、不細工な分だけしっかり勉強をして、凛々しく
   生きなければと、子供心に思った。
   もっとも当時、凛々しいなどという言葉を知っていたかどうかは怪しいが、それが
   不器量な女の子の生きる道だと、おませな私は悟ったのである。
   だが、そういう小母さんたちも、そう褒められた顔の持ち主ではなかった。

   長じて、河内の女の顔の特徴ってどんなだろと、時おり気になっていたら、先日、
   興味深い新聞記事が目についた。

   上村松園が描く「楠公夫人」という日本画がある。
   楠木正成の夫人・久子は「天性賢明、容姿閑雅」、だったそうである。
   典型的な河内女性の顔立ちだと伝わるが、その面影を伝えるものがない。
   困り果てた松園は知人の紹介で、河内方の美人、千早赤阪の甘南備の郷の若妻を
   モデルに描き上げたそうだ。

   若妻は、面長の色の白い品のいい顔立ちであったと、松園は著書「青眉抄」に書いている。
   だが画集を見てみると、松園描くところの河内美人は、ふっくらとした丸顔の優しげな
   風情である。


   話は急に飛ぶ。頭の中は一層混乱状態だ。

   いま今東光の「毒舌・仏教入門」にはまっている。
   比叡山の東の麓にある戸津で、東光氏が行った説教を活字にしたものである。
   わし説法はうまいんでっせ、と語りかけながら、出てくるわ出てくるわ高名な作家たち
   の名前が。

   東光氏は33歳の時、人生に絶望をする。
   生きる支えになるものがなく、文学にも自信がない。
   これじゃ、死ぬしかないと思っていた矢先、友人の芥川龍之介が自殺。
   悲しみの中で、「人間何があっても死ぬべからず、死は完全な敗北」だと識り、確かなものを
   求めたいと出家を決めたという。

   川端康成との終生の友情にも、心が熱くなった。
   病気がちだったにもかかわらず、ノーベル賞作家が、なりふり構わず参議院選の応援演説
   にかけつけ、旅先で寝込み寝込み全国遊説に付き合ったそうだ。

   柴田錬三郎は、東光氏の死に際し、
   「あの偉大なる脳ミソが灰になるのか」と、大僧正の逝去を悲嘆し惜しむ。
   友を見ればその人が分かる、の典型だ。

   何より私を嬉しがらせるのは、何度も八尾市の天台院が登場することだ。
 
   天台宗3千余の中でも最小の寺だが、面白い小説を書けたのも、母親を看取ったのも
   この寺である。
   ここの和尚にしてもらったんだから、比叡山の方に足を向けて寝られないと、謙虚である。
   さすが作家にして宗教家である。
   誰1人眠らさず、分かりやすく仏教の神髄を教える。

   私は子供を3人連れているお母さんを見ると、こっそり合掌をするんでっせ。
   「ああ、ご苦労さんでございます。よく育ててくれて有難う」と。

   和尚の毒舌は、優しさと恥じらいの裏返しだ。

   「凡夫は銅で出来ているとしたら、二流の人物は銅の上に金メッキをして、金ぴかを
   装っている。
   だが本物の大人物は、金無垢に銅メッキをして生きている。こちらが爪をカリカリ立てると、
   銅の下から金無垢が、ちらりちらりと見えてくる」
   今東光という人は、まさにそういう人物だったと、本は締めくくられている。
   
   あと残り何行? 
   えっ8行。カニが長すぎたかなあ、5枚以内で収まるかなあ……。

   「蔕文庫」は出会いの場であると同時に、私には別れの場でもあった。
   大事な人との別れは5本の指では足りない。
   彼岸に渡った人たちは、今頃、あの世で、「天上の蔕文庫」を発行しているかも知れない。


                                  2018.5.4