川上恵(沙羅けい)の芸術村
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  パソコンの休眠中の河内再発見です。
  時期的なズレがあると思いますが、シリーズですのでご容赦ください。


       河内再発見

                    漬けもんのきざんだのん
  
   どんなに食欲のない時でも、これさえあればという一品がある。
   「漬けもんのきざんだのん」である。

   漬かりすぎて酸っぱくなった古漬けの、胡瓜や茄子、あるいは沢庵を水にさらし、塩抜きをし、
   細かくきざんだのに、生姜をすりおろし、すり胡麻をふりかけ、好みによって醤油を
   少々たらす。
   生姜のさわやかな香りと辛みが、口いっぱいに広がり、漬けもんの歯ごたえの見事なこと。
   つわりの酷かった私は、毎日これを食べ苦しい時期をしのいだ。
   つまり、息子は「漬けもん」に助けられたのだ。

   河内には固有名詞を持たない食べ物がある。
   「菜っぱの炊いたん」や「漬けもんのきざんだのん」などである。
   これがまた格別なのだ。
   小松菜も白菜もうまい菜も一括して、「菜っぱの炊いたん」である。
   だが例外もある。水菜だけは「水菜の炊いたん」になる場合が多い。
   そう言えば長い間、鯨と水菜のハリハリ鍋を食べていないなあ……。

   どの野菜も油揚げと相性がよく、固有名詞のない食べ物は、素朴で飽きがこない。
   歳と共に、この「……たのん」が好きになる。

   講釈が長くなったが、この漬けもんのきざんだのんに、名前があるのをつい最近知った。
   「隔夜・覚弥」と言う。
   「かくや」、なんと風流な名前だろう。漬物が一挙に高級な日本料理に様変わりだ。

   由来は、高野山の隔夜堂の歯の悪い老僧のために作られたという説と、
   江戸時代の初め、徳川家康の料理人、岩下覚弥の創始によるものとの、二通りある。
   辞書にも載っている、由緒正しき食べ物である。

   また落語の「酢豆腐」にも、隔夜は登場する。
   「古漬けを水で洗って、トントンと刻んで絞って、かくやのこうこって、おつなもんだ」
   と言うくだりだ。


   平安時代、空也上人によって隔夜信仰が始まった。
   一夜ずつ特定の神社寺院を泊り歩いて、往復の参詣修行をするのである。
   それは明治のころまで続いたという。

   修行僧を隔夜上人・隔夜聖、近世には隔夜僧と呼び、参詣する道筋を隔夜道、そして
   泊まる堂を隔夜堂といった。
   高野山の歯の悪い老僧は、隔夜僧だったに違いない。

   隔夜信仰は奈良の春日大社そばの隔夜寺から、長谷寺の隔夜堂までの参詣が有名だが、
   私の住んでいる藤井寺市でも隔夜詣が行われていたことを知った。
   それも明治の初めごろまで。

   「へえ、そうなん。知らんかった」
   なんでも知りたがる河内人間の血が騒いだ。これは厄介なことになりそうだ。
   直情型ひとめぼれ体質の私は、さっそく河内の隔夜道探しを始めた。
   他にしなければならないことが、山積みなのにである。
   部屋の大掃除に貸農園の手入れ、友人とのランチに病院通い……。

   河内の隔夜道は、上ノ太子叡福寺前の隔夜堂を皮切りに、竹内街道を藤井寺市の
   野中寺へ。そして野中寺から東高野か中高野街道を、八尾市の大聖勝軍寺に向かったと
   思われる。あくまで、思われるなのだ。
   三ヶ寺とも聖徳太子ゆかりの寺で、それぞれ、上の太子・中の太子・下の太子と
   呼ばれている。

   私は取材と称する類は苦手である。
   何様でもない私が、どんな顔をして質問すればいいのか、戸惑うのだ。
   気恥ずかしいこと、この上ない。

   そんな私も今回ばかりは、そうは言ってもおられず、各寺院や役所に足を運んだ。
   だが相手は一様に首を傾げ、
   「それ、何のことですか? 初めて聞きました。どんな字を書くのですか? いい事を
   教えてもらいました」
   と、最後にはお礼まで言われる始末だった。
   千年も二千年も昔のことでも明確にわかる事があるのに、明治のことが、しかも
   関係者ですら分からないのかと、衝撃を受けた。

   食べ物の名称や落語にその言葉が残っているのに、今や隔夜修行や僧の存在を
   知る人は皆無に等しく、歴史から一つの事実が消えてゆく瞬間に立ち会っている
   ような気がした。

   消えてゆく瞬間を、少しでも先延ばしにしたいと願った。
   遺物や遺跡は残るのに、形を持たないものは消え去ってしまうのが、悔しく寂しい。
   大事な物は目に見えないのに。

   灼熱の夏も、厳寒の冬も、一心に経を唱え河内の道を歩き、大和川を越えた隔夜僧
   のことを抹殺したくないと思った。
   ヒタヒタと、破れた藁草履の足音が私には聞こえる。

   河内のどんなルートをたどり、どんな経を唱えたのか、僧は一人だったのか、叡福寺
   の隔夜堂の他に、もう一方の隔夜堂はどこにあったのか……。
   疑問はつのるばかりだ。

   どなたか、隔夜僧のことをご存じでしたら、教えて下さい。