川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                            父の外出



     夕食も済み、風呂を使い終えると、父の定番の夜が始まる。
     ラヂオのスイッチを入れ、ポマードとチックを手に、柱に掛けた鏡の前に、おもむろに立つのだ。
     それは365日、1日も欠かすことのない行事だった。
     厳つい顔の大の男が、年頃の娘のように、顔を正面から眺めたり、横顔を映したりする姿は
     恥ずかしくなるくらい滑稽だ。
     本人が真面目なだけに、余計に笑えるのだった。

     そして洗ったばかりの髪に、こってりとポマードを塗りつける。
     豊かで黒々とした髪の毛は、父の内心の自慢だ。
     ラヂオからは、気に入りのクイズ番組が流れている。
     聞きなれたアナウンサーの声だ。

     突然、父は大きな声で、「○○○○!」と、
     回答者の誰よりも早く答え、得意げに私たちの顔を見回す。
     油で塗り固められた髪は、蛍光灯の下で、鬼ヤンマの眼のように、てらてらと光っている。
     「まるで闇夜のカラスやな」

     漆黒の髪に祖母は感心しながらも、
     「けど寝る前に、そないに仰々しゅうせんでも、枕カバーが汚れるだけや」
     だが、父はへへへと笑うだけだった。
     仕上げにチックを使い、前髪をオールバックにかき上げた。
     広い額はいよいよ広く、真四角な顔になるのだった。

     『お父さんも佐田啓二みたいに、前髪をパラリとたらせばいいのに』
     そのたび私は似ても似つかない俳優の顔が浮かぶのだった。
     父は、まだクイズに答えている。

     だが、そんな父と一緒に暮したのは、たった12年間であった。
     美人ではないが、可愛げのある人と生活を始めたからだ。


       ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


     「けど、神さんって粋な計らいをするもんやな、俺にこんな日が来るとは。
     やっぱり神さんているんやな」
     父はかみしめるように微笑んだ。
     「あっ、目がさがった!」金壷眼に見覚えがあった。
     髪は?と見ると、いまもオールバックだ。歳のせいで、広い額はいよいよ広くなっている。
     緩やかに、だか確実に、目の前の痩せた老人と、私の知っていた父が重なった。
     「お父さん」
     初めて私は老人を、お父さんと呼んだ。ためらいはなかった。
     父は嬉しそうに「めえちゃん」と、言い、今日はええ日や、と何度も呟いた。
     そして時おり咳き込んだ。

     その日は小雪が降っていた。初雪だった。
     父と会ってから、まだひと月もたっていない。
     『せっかく会えたのに、どうしてこんな場所なの』
     私は父に話しかけた。
     『堪忍やで……』父は気弱そうに笑う。

     やがて斎場の高い煙突から薄紫の煙が立ち上り、冬の空に吸い込まれていった。
     「めえちゃん、やっぱり煙草はピースやで」
     雪は優しく、私の髪や肩にふりかかる。

     初雪の日から何日かたった、ある日、母が何気ない風にポツリと言った。
     「あんたのお父さん、高校でてへんねん」
     「……そうだったの」
     私は初めて父が分かった気がした。
     煙草がピースなのも、時計が金張りなのも、お洒落なのも……
     誰よりも早くクイズに答えたかったのも……
     なんだかみんな分かる気がした。

     だが分かったのは、それだけではなかった。
  
     父が亡くなって、一緒に暮していた女性から手紙が届いた。
     父は外出の出来る体ではなかった。外出を禁止されていたという。
     まして入院先から、私の家まで、車で1時間以上もかかる距離だった。
     私に会うため、こっそり病院を抜け出したのだ。
     死と引き換えの、父の外出。最後の外出……。
     どんな思いで私に会い、私の名前を呼んだのだろう。

     父が亡くなって、随分になるのに、いまだに彼岸の頃になると、私が父を死なせたのではないかと、
     自分を責めるのだ。
     なぜ私は父の居所を捜し、電話を入れたのか……。
     あのまま静かに暮せば、父はもう少し生きられたのに……
     
     「俺は本望やで、めえちゃん。それより女は、可愛げのあるのが一番やで」