川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                       水辺の光景



     医者から歩くことを勧められた。
     長年の持病に加え、ここ何年間か、腰痛に悩まされているせいだ。
     無理しない程度に歩いてくださいと言われているが、自慢じゃないが体にいい事は、
     長続きしたためしがない。
     反対に、体に悪いこと大好き人間である。
     なにより、自己管理は私の最も不得手とするところだ。


     そんな私が歩き始めている。
     ついこの間まで、健康のためにウオーキングやジョギングをしている中高年の人達を見て、
     ああまでして健康や生命に執着したくないものだと、冷ややかな目で見ていたというのに。

     私が知っていた昔の老人達は、決して健康保持のために歩きなどしなかった。
     体が“くの字”に折れ曲がろうと、手足が鉤のようにねじれようと、おかまいなしだった。
     そんなものだと諦めていた。

     歳を重ねれば老いてゆくのは当たり前、木が枯れ、もろくなるように、
     自然に任せ抗ったりはしなかった。
     老いは神の領域だったのだ。
     私はそんな凛々しい老人になりたかった。
     へんに溌剌とした老人や、若づくりした女性は、どこか無理があるように思えて
     仕方がない。
     見ていて疲れる。美しくないのだ。
     
     失われていくものに、意地汚く未練を残したくはない。
     ありのままの自分を、素直に受け入れたかった。
     衰えてゆく若さや、体力、健康、それらに執着することなく、老いてゆく自信があった。
     固執しないと言い切れた。
     潔く老いや病を受け入れ、潔く老人になりたかった。
     そして人に迷惑をかけず、ひっそりと生きていきたかった。

     そんな私が大和川の川原を歩いている。
     心のどこかで、女々しいという声がする。
     私の潔さなど、所詮そんなものだったのかと、少し、がっかりししている。
     いや、おおいに。

     執着などというものは、失いかけて初めて実感するものらしい。
     いままでは若さのおごりで、中高年の人達を見ていたのだろう。
     人間、先のことはあまり批判したり、断定すべきではないと、妙なところで学習をした。
     心は移りゆくものだ知った。

     私がウオーキングを始めた日、それは紛れもなく自分を中年だと認めた日でもある。