川上恵(沙羅けい)の芸術村
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 河内再発見               



                 
 私と盆踊り

    不良少女だった。
      といっても人様を傷つけたり、金品をまきあげたりす性質の悪い不良ではない。
    なにしろ小学生不良なのだから。とはいえ、大阪市内での中学受験を希望する私に、
   
「あの子を大阪方面へ出したらいけません。不良になるのは目に見えています。
    確実になります、それも半端でない不良に。
    だから地元の中学から田舎の公立へ行かせなさい」と、
    教頭先生や担任が家に忠告に来られたものだ。

      
      多分に、危険な要素を持つ子供だったのだ。
      恥ずかしながら、家庭内暴力めいたこともあった。祖母や母、弟を泣かせた。
      姉思いの弟は、私より充分力は強いにも係わらず、歯向かうことをせず、
    頭を抱えしゃがみこみ、嵐のひと時が過ぎ去るのを待った。

      父親のいない家庭環境の不自然さが、世間に対して恥ずかしく、肩身が狭かったのだ。  
      多分に早熟で自意識が強かったのだ。心が縮こまっていた。
    そんな私が熱中したのは、映画と田舎芝居、そして盆踊りであった。

      そうとは気付かないながらの、現実逃避。

      河内音頭のルーツは八尾市の常光寺にある。
      室町時代、本堂再建のための木材を、京から、淀川・大和川を使い八尾へと運搬した。
      指揮者が音頭をとり、それに合わせ運搬者が掛け声をかける。
    それが流し調の「木遣り音頭」となり、「流し節・正調河内音頭
(八尾の流し)
    へと形を整えた。

      ゆったりとした趣のある音頭である。
   「音の百選」に選ばれているといえば、その伸びやかな音調の程が分かるだろう。

    常光寺の本尊である地蔵菩薩は、六道珍皇寺の井戸から、この世と地獄とを行き来し、
    閻魔さんの手伝いをしていたという小野篁(たかむら)の作である。
    篁が冥界で人を救う逸話は、地獄の苦しみから庶民を救う地蔵信仰へと繋がってゆく。
    境内の地蔵堂の横に閻魔堂があり、薄暗い堂内には、迫力ある深紅の閻魔さんの脇に、
    帳面を携えた篁らしき像が並んでいる。

    地蔵盆の日、常光寺では「八尾の流し」が、提灯の下を泳ぐように踊られる。
      だが、私が踊ったのは正調河内音頭ではなく、一般的なテンポのある新河内音頭である。

     え〜んさ〜ては この場の皆さまよ〜
                   ちょいと出ま〜した わたくしは〜 イヤコラセー ドッコイセ

    盆踊りの期間中、小学生の私は憑かれたように踊った。指に食い込む鼻緒の痛さも、
    汗で濡れた浴衣が背中に張りつく気持ちの悪さも、気にならなかった。

      櫓の上では前座で、従兄が音頭を取っている。「ええ加減に帰りや」、
    従兄は櫓の上から心配げに、何度となく声をかけた。

      九時には生活指導の先生が見回りにくるが、その時は神社の本殿の後ろに隠れて、
    やり過ごす。楠の黒い影が私を上手に隠してくれた。

      
      夜が深まるにつれて踊りの輪は何重にも広がった。大人になった気分だ。
    内向していた私のエネルギーは、音頭の熱気に、粉々に飛び散るのだった。
    いつまでも夜の底に漂っていたかった。雷鳴のような太鼓の音は、
    お腹の底まで振動させる。大人も老人も体中に汗を滴らせ、
    踊ることだけに集中している。大人に混じって私も負けじと踊った。

      時おり吹く夜風が心地よかった。

      先生の反対を押し切って、私は市内の私学に入学した。
    そこには初めて見るような、お嬢様がいっぱいいた。

      突然、私はあることに気づいた。不良はお金持ちの子息女にこそ相応しいと。
    不自由のない生活、お洒落な服装、そして美形であること。
    貧相な家庭の不良は、しみったれて、どこか薄汚れている気がした。
    それは世の中に対して拗ねているにすぎない。
    私はそんないじけた不良はごめんだった。
    私が憧れる不良は「太陽の季節」や「陽のあたる坂道」での、
    天衣無縫な裕次郎的不良だ。


      ストンと憑き物が落ちた。不良になるのも早かったが、卒業するのも早かった。
      大人になるということは、なんと大変なことか。人を泣かせ自分も泣き、
    傷つき傷つけ、時には路地に迷い込み、出口を探しウロウロと日々を重ねる。


      ヒステリックで凶暴な、どこにも行きようのない暴力化した私のエネルギーを
    その身ひとつで受け止め続けてくれた弟は、今年、還暦を迎えた。私は弟に感謝をしている。
      
    だが一度も口に出して、詫びや礼を言った事がない。言葉で帳消しになるとは思えない。

      今年の夏、久しぶりに河内音頭を踊った。
    足捌きはすいぶ重くなっていたが、子供の頃の私が、弟が、
    懐かしくいじらしく、少しだけ涙が滲んだ。
   「かんにんな」、踊りながら、口の中で小さく呟いた。
    河内音頭の頃は、私を感傷的にさせる頃でもある。