川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                    私と弟

                             
     弟が坊主頭にした時は驚いた。
     何か懺悔することでもあるのかと聞くと、髪の毛が薄くなったので、思い切って丸坊主に
     したとのことだった。   
      
     「なんやアクソウやね」
     「そうやろ、気にしてるねん。この頃、相が悪なったなあって」
     「ちがうちがう、私のいうアクソウって、悪い僧のこと」
     「つまり弓削道鏡やな。あの人って八尾の弓削の人やろ」
     「そんな大物やない。小物の悪僧」
     「ハイハイ、なんとでも好きなように」
     「善哉があるけど、食べる?」
     甘いものに目がない弟は、お餅、網で焼いてや。チンしたのは嫌やでと、子供の頃の顔に
     なった。
     
     むかし、河内地方は事あるごとに、お餅をついた。
     正月前はもちろん、祝い事や田畑仕事が一段落ついた、半夏生(はげっしょ)などにである。
     その日は親戚中が裏庭に集り、杵を持つもの、餅を丸めるもの、打ち粉をするものなどで、
     庭は早朝から夕暮まで賑やかだった。

     もち米が蒸しあがる時の匂いの美味しいこと。
     私はいつもこっそりと祖母にお皿をさしだす。
     「内緒で食べや」、少し硬めに蒸しあげた艶やかなもち米に、塩をパラパラとふりかけ、
     祖母は私にひいきをしたものだ。

     裏庭を懐かしんでいる内にも、お餅の焼ける香ばしい匂いがしてきた。
     「お餅、2個入れてや」
     弟はふざけて箸をカニの鋏のようにカチカチと鳴らしながら、
     「なんで昔は、“あも”て言うてんやろな」
     「あんころ餅が、“あも”になったらしいよ」
     「へえ、しかし、どうでもええことは、よう知ってるな」    
     「ヨモギ餅、エビ餅、豆餅、胡麻や砂糖を入れたのし餅、赤猫いうのもあったね」

     田植えが終ったころ、近所の人が届けてくれる半夏生ダンゴも待ち遠しかった。
     最近、ときどきスーパーなどで、それらしきものを見かけることがあるが、固すぎたり、
     反対に腰がなかったりと、むかし食べたものとは似ていて非なるものである。
     薄茶色の細かい粒のようなものがダンゴに混じっていたが、小麦の皮だと知ったのは、
     後年になってからだ。

     「餅は河内の文化やなあ。食文化や」
     「食文化といえば、むかし大和川で獲れたモロコやジャコを売りにきやはったね。
     お祖母ちゃんの炊いたジャコ豆、最高やった」

     リンを振りながら小父さんはやってくる。
     太いタイヤの頑丈な自転車の荷台には、四角い木箱が乗っていた。箱は微かに魚臭い。
     ところどころの家の軒下に、赤い布切れがぶら下がっている。
     小父さんはその家の前で自転車をとめる。
     ジャコ買います、の目印だ。
     母は慌てて小鍋を手に、表に飛び出す。
     小父さんが蓋をあけると、キラキラと目の光った小魚が、ぎっしり詰まっている。
     「100匁お願いします」
     天秤ばかりを扱う小父さんの手付きに、私はいつも見とれるのだった。

     「僕は、あのほろ苦さ苦手やった」
     だがそれも小学6年生までだった。

     校長先生が朝礼の時、皆さんに大事な話があります、しっかり聞いてくださいと言った。
     これから大和川で泳いではいけません。ホリドールという農薬が流れ込んでいます。
     毒です。田圃にもまかれています。田圃の前を通る時は、ハンカチで鼻と口を押さえて、
     走って通りましょう。
     公害の始まりである。

     以来、ジャコ売りの小父さんは来なくなった。
     ため池でとれた鯉や鮒も食べなくなった。
    
     「なんやこの頃、旨いもんが増えすぎて、かえって美味しいと思うもんがなくなったなあ」
     「口が肥えてしもうたんやね」
     「昔は鮨なんて、1年に数えるほどやったのに、この頃は、嫁はん手抜きの時は鮨を
     あてがわれる」
     「1皿100円の鮨が、くるくる回ってる世の中やからねえ」
     「子供のとき食べた、鯨入りの真っ黄色のカレーが、無性に食べたくなる時があるねん」
     「いま食べたら、がっかりするのと違う? 初恋の人とは会わん方がええのと同じ」

     時おり幼い日の弟と子供のころの息子が、こんがらがることがある。
     いつも私の後をついてまわったのに、弟は還暦を過ぎ、息子も充分すぎる大人になった。
     私や弟には多くの郷愁の味があるのに、息子に河内の味はあるのだろうか。
     郷愁の味はあるのだろうか。
     まずは、はったい粉入りのお粥さんから入門させよう。

     「あんた、やっぱり髪の毛、伸ばした方がええよ。その方が可愛らしい」
     「もう可愛らしいという歳でもないがな」