川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
エッセー  旅  たわごと  出版紹介 



                    わ た し


     ×世紀、医療は風邪や慢性病その他軽い疾病を除いて、ほとんどは移植という形で
     行われた。 
     名医の条件は、なにより手先の器用さを求められる職人医が、もてはやされた。

     僕は医学生だ。毎日指先の運動を欠かしたことがない。
     ネットのオークションで二十世紀に流行ったらしい麻雀牌を買った。
     盲牌の練習をすると指先が目になるらしいのだ。
     しなやかな指こそが、移植医の絶対条件だ。 

     臓器移植は二十世紀の後半から始まったが、現在の水準から見れば、当時のは実に稚拙で
     お粗末である。
     その頃としては画期的であっただろう技術も、我々からすれば原始にも行われていた
     悪霊除きの開頭手術と、そう大差がない。

     文献によると、失敗や問題点も多かったらしい。反面、だからこそ医学の進歩にも
     繋がったのだが。
     死の基準をどの時点に定めるのかについて、倫理委員会というものまで設立されたらしい。
    死の尊厳≠ネどというもったいぶった言い方をしている。
     まったくお笑いだ。死は生物の上に公平に訪れるものだ。
     人間だけに尊厳があるのではない。

     現在では心肺停止後、三時間が死と定義づけられている。
     薬品処理によって、その時間までなら臓器の鮮度が保てるのである。
     なにより死は個体の停止以外の何物でもなかった。
     人工臓器の開発も進んだが、やはり同じ生物間の方が馴染みが良いという点で、
     現在では死体臓器を移植する。それで充分なのだ。医療の進歩の賜物である。
     昔は少しでも新鮮なものをと、目の色を変えていたらしいが。

     脳の移植でさえそうである。ただ脳の場合だけは、まれに問題が生じた……

     三日間の入院を終え、鞠子は自宅に戻った。
     小さな旅行に出かけるくらいの手軽さである。
     一日目は医者との打ち合わせ、二日目は手術、三日目は術後の安静。
     それですべて終わりである。
     転移性の脳腫瘍だった鞠子の脳は、女性の新しい脳と入れ替えられた。

     「ママ、おかえり。もう大丈夫? もう頭いたくない? 理佐すっごく心配したんだから」
     「ごめんなさいね、心配をかけちゃって。もう大丈夫だから、さて腕によりをかけて
     晩御飯をつくろうか」
     頭痛に悩まされる事のなくなった鞠子の生活は、快適だった。
     優しい夫、可愛い娘。まさに絵に描いたような穏やかな毎日。幸せが移植と共に舞い戻って
     きた。
     静かで平安な日々は、永遠に続くはずだった。
 
     移植から数ヶ月たったころ
     「あんた女がいるんでしょ。隠してったって分かるんだから。
     どうせ大した女じゃないくせに。
     女の抱きごこちは、どうだったのさ。このスケベの馬鹿野郎!」
     野卑な言葉で、夫の順平をののしった。
     順平は一瞬ポカンとしていたが
     「……鞠子、いったい君はなにを言っているんだい」
     「君、君だって。笑わせるんじゃないよ、お上品ぶって。お互いお里は知れているんだ。
     それに私のことマリコだって。私は朋美。
     ははーん、そういうことか、女の名前はマリコっていうんだ」

     声や顔つきの豹変した鞠子に、順平は呆然とした。
     「正気か! 鞠子」
     「理佐、いつまで起きてんだよ。ガキはさっさと寝な。なんという目で親を見るんだ。
     生意気な顔だね」と、いうなり、娘の顔をつねった。
     「鞠子やめなさい。なんてことをするんだい」
     「パパ、怖いよ。ママが変になったよ」

     だが数分後には、普段の鞠子にもどるのだった。
     同じ事が数回続き、鞠子は再び病院の門をくぐった。

     「稀にあるんですよ、こんなことが」
     医者は表情も変えずに説明をする。
     移植の際に薬品処理によって、提供者の脳の記憶を消しておくのだが、
     稀に蘇ることがあるらしいのだ。例えは妥当かどうか、種無し葡萄を作りだすには、
     葡萄をコルヒチンの溶液につけ、化学処理をするようなものです。
     その時点で多分なんらかのアクシデントが発生した。

     「どうします? もう一度、取り替えますか」 
     鞠子は考えますとだけ、答えた。まるでパーツだと思った。
     ……私はいったい誰なのだろう、誰になってしまうのだろう。
     心はどこにあるのだろう、脳にあるとすれば、私はあのあばずれた女性なのだろうか。
     本来の私は、もういないのだろうか、私はどこへいってしまったの……

     どんな病でも治る時代だった。
     だが、ここ数年、医療に変化の兆し現れた。
     移植を拒む人が増えつつあることだ。
    心のありか≠ネどという、ややこしい事を一部の人たちが言い出したせいだ。

     移植を拒んだ人の臓器を、移植されるという矛盾。
     脳も肝臓も胃も膀胱も心臓も肺も、みんな他人のもの。
     一体私はどこにいるのでしょう。私はミュータントなのでしょうか、などというメールが、
     パソコンに飛び込んできたりする。

     進み過ぎた医療の行き詰まりかもしれない。
     長く生きる事に意味があるのだろうか、いかに自分らしく生き切ることにこそ、
     意味があるのではないだろうかというのが、医者たちの論争の争点になっている。
     施術を善しとしない医者も出てきたと聞く。
     その昔、死の瞬間の定義をどこに置くかと論争したように、(自分の定義)をどこに
     置くか、あるいは、生の定義づけが争点の中心になっている。

     人が二百歳まで生きて、なんの不都合があるのか僕には分からない。
     愛する人が移植によって、救われるなら、他人の臓器ばかりになってもやはり生き長らえて
     ほしいと思うに違いない。
     医学や科学の恩恵を受けられるのに、あえてそれを拒否するのは、
     僕には命の冒涜に思えて仕方がない。
     それとも命に対する考え方は、環境や年齢によって異なってくるものなのだろうか。
 
     僕はそんな論争をよそに、日々、盲牌の練習に励んでいる。