川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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             後ろ姿



  雨が降っているらしい。        
  ベランダに落ちる雨音を聞きながら、私は天井から吊るされた電灯を見ている。
  シェードにはうっすらと埃がかぶっていた。もうどれくらい掃除をしていないのだろう。
  カーテンごしに入る陽の光もなく、部屋の中は夕方のように薄暗い。
  枕元の置時計をみると、三時前だった。今日の天気と同じように、気分も重く沈んでいる。

  この数ヵ月、私は寝たり起きたりの生活を繰り返している。体も心も病気だった。
  今日が何日なのか、何曜日なのか、頭も心も鬱々と冬眠状態だ。  

  不幸は今年の夏、突然におこった。
  待ちに待った子供だった。四十歳目前に初めて恵まれた命だった。
  私は毎日、お腹に手を当てて、見たこともない神様に感謝をした。
  それなのに夕立の激しい昼下がり、お腹の中にいた私の赤ちゃんは、雨と一緒に消えてしまった。

  日が経つにつれて、悲しみはますます深くなっていく。
  お腹の中のあの確かな実感は、むず痒くなるほど甘やかで、豊かで、神秘的だった。
  一時でも、もう一つの命の確かな手ごたえを知ってしまった今となっては、亡くしたものの
  存在は、あまりにも大きく、それに代わるものがあるとは、とうてい思えなかった。
  それは私そのものだった。
 
  あの実感をもう一度、味わいたいと、私は宙に向かって、虚しくもがき、疲れ果てる。
  その挙句、『もう、どうでもいい。遅かれ早かれ人間一度は死ぬんだもの』と、投げやりになり、
  私はよからぬ事を考えつづける。
  雨が庭木に当たって、単調な音を響かせている。雨音に呼応するように、
  気持ちは益々重く沈み込んでいく。
          
  「うん?」、玄関のあたりで微かな音がした。
  猫でも居るのだろうかと放っておいたが、かさかさとした音は止まない。
  私は気怠い身体をおこし、不承不承階下へ下りた。

  ガラス戸に人影が映っている。
  どなた?と、億劫げにドアを開けると、大きな荷物を片手に抱え、杖をついた母が雨の中に
  立っていた。
  茶色の杖も白いビニール袋も雨に濡れている。
  「どうしたの? こんな雨の日に」
  「奈津ちゃんの夢を見たの……」
  それから言い訳をするように
  「何も食べていないと思って。のど越しのいいプリンやゼリーを持ってきたの。
  それに鉄分入りのウエハース。
  欲しくはないだろうけれど、少しでも食べてね。いまは食べることが仕事よ」。
  そう言いながら、雨粒のついたビニール袋を私に差し出した。

  「馬鹿ねえ、そんな足で。雨の中を転んだらどうするの。骨でも折ったら大変よ」
  母は大腿骨と右足の関節が悪く、びっこをひいている。ここ何年も一人で電車に乗ったことは
  なかった。
  杖をつき、荷物を手に傘をさし、母はどれだけの時間をかけ玄関先に立ったのだろう。
  私は久しぶりにインスタントではなく、コーヒーを点てた。
  部屋の中に、雨の匂いとコーヒーの香りが混ざった。

  「奈津ちゃんと一緒に飲むコーヒーはおいしいね」
  お茶を一杯飲み終えると、母は椅子を立った。その拍子に体のバランスが崩れ母はよろけた。
  「あれっ、ここの床はよく滑るね」
  気丈な母は、とっさに言いつくろった。 
  目の前の母が急に小さく見えた。
  自分より大きかったもの、強かったものが衰えて行くのを見るのは、なんとつらいことだろう。
  そういえば私と同じだった背丈が、今では目の辺りに頭がある。
  いつの間にか、母は弱者になっていた、いつ、どこで私と逆転したのだろう……。

  それでも「子供はまた出来るから」と、無責任な慰めを言わない母だった。
  私は母を駅まで送った。
  洋服に着替え外に出るのは、久しぶりだった。
  私は母の歩調に合わせて、ゆっくりと歩く。母は遅れまいと足を引きずりながら、息を弾ませた。

  「奈津ちゃん、一生懸命食べて、ゆっくりでいいから元気になってね」改札口でまた
  同じ事をいった。
  そして、手摺りに掴まりながら、後ろを振り返り振り返り、階段を降りていった。
  悲しくなるほどはかなげで、哀しくなるほど優しい後ろ姿だった。

  突然私の身体の奥底から、熱いものが沸き上がってきた。
  それは思いもよらぬほど大きな力で、私を揺さぶった。        
  『私、頑張る! 絶対、頑張って見せる。もう変な気を起こさないから。
  お母ちゃんの為にもがんばるから』

  母が見えなくなっても、私はまだ改札口を見続けていた。
  電車の一番後ろの車両が見えなくなっても、私はまだ電車を見送っていた。
  雨は霧雨に変わり、煙るように降っている。
  母が電車を降りる頃には、たぶん上がっているだろう。
  母が傘を差さずに済むようにと、私は空を見上げた。