川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
ホーム  エッセー  旅  たわごと  出版紹介 
河内再発見 

東海道五七次とごんぼ汁 


           
 東海道は五三次ではなく五七次である。こう言うと驚かれる方も多いだろう。
 私達が馴染んでいる五三次は江戸、日本橋を基点に京の三条大橋までだが、実はまだ先があった。伏見・淀・枚方・守口宿と続き、大阪は高麗橋にいたる、距離にして約40キロMぐらいの道程である。
 東海道は1601年に徳川幕府により五三次が整備されたが、それ以前に豊臣秀吉は大坂城と伏見城を結ぶ最短距離の道として、文禄5年(1596)淀川左岸に「文禄堤」を築造し、堤の上を街道とした。これが後の「京街道」で、江戸時代になると東海道の延長部として、京都と大坂を結ぶ主要街道となる。五代将軍綱吉の頃には、江戸大坂間137里4町1間をもって東海道とし、宿は品川宿より守口宿と記されている。
 だが五七次が成立しても、豊臣色の濃い関西では相変わらず、京に向かう時は「京街道」、逆路は「大坂街道」と呼び、あえて東海道という名称を使わなかった。まさに関西人の気質である。特に大阪人にこの気質は、今も脈々と受け継がれている。
 枚方宿は五六番目の宿場町にあたる。
「飯くらわんか! 酒くらわんか! 
   銭がないからようくらわんか!」
 枚方浜に三十石船が停泊するや、あん餅、ごんぼ汁、酒などを商う『くらわんか舟』が、ソレッ、とばかりに三十石船まで漕ぎ寄せ、船べりで口調荒々しく、誰彼なく品物を売りつける。
「 何をふざきやァがる」と、弥次さん喜多さんも啖呵をきっている。だがこの無作法は、天の川洪水の折、枚方の五平兵衛なる人物が公用の飛脚を渡した功績により、幕府から天下御免のお墨付きを貰い、相手が武士であっても無礼とはならなかったようである。
 先日、そのごんぼ汁なるものを食べてみたいと、船宿として栄えた「鍵屋」を訪ねた。
「鍵屋浦には碇は要らぬ三味や太鼓で船止める」と歌われた宿の表玄関は街道に面し、裏口は淀川に接していて、船の乗降に便利な造りになっているという。煙出しのある屋根、外壁には卯建があがり、入り口には江戸時代のシャッターである摺り揚戸、階段は箱階段……。当時がそのままに残っている。
 黒光りのする階段を上り、二階の和室で、くらわんか鮨とごんぼ汁を頂く。素朴ながら奥深い味は、お世辞でなく美味しい。
 木津川・宇治川・桂川の三川合流をイメージしたくらわんか鮨は、菊を混ぜ込んだ鮨飯に、うなぎ・小鯛・胡瓜が美しい押し鮨である。ささがき牛蒡と油揚げ少量のおからの入ったごんぼ汁との相性は抜群だ。ごんぼ汁はあっさりとしているのにコクがある。
 これで一〇五〇円の安さだ、嬉しくなる。
 窓の外には滔々とした淀川の水面、そして高灯篭や高札場の残る町並み。
 春の柔らかい日差しが街道を流れている。Y字路に京街道と掘られた道標が建っている。その一角に遊郭跡が残っていた。ぞろりと着物を着付け、厚く白粉をつけた遊女達が、夜な夜な客を引いていたのだ。格子のはまった二階屋の造りは、いまも微かに隠微な風情が漂う。この街道をシーボルトも通ったという。
「枚方の環境は非常に美しく、淀川の流域は私の祖国のマインの谷を思い出させるところが多い」と述懐したそうだ。
 目を閉じると、江戸幕府へ向かう医師シーボルトの姿が見える気がする。
 枚方宿は、上りは京街道を利用し、下りは安い舟便をするため、片宿としての色彩が強かった。シーボルトも帰路は船だったに違いない。
 
 私は街道が好きである。
 人が歩き、馬や牛が歩き、物を運び、情報や喜怒哀楽の感情が往来し、やがて土地特有の文化を作る。気が遠くなるほどの年月、気が遠くなるほど多くの人々が、この道を踏みしめたのだと、不思議な感傷に襲われる。
 古人の足裏の温もりが、そこはかと伝わり、遥か遠い昔の人と、同じ空間を共有している不思議さ、面白さ、懐かしさに心がざわつく。足音、ざわめき、笑い声、泣き声、それらが幻聴のように木霊する。
 どれだけのドラマがこの東海道で生まれたか。遊女と旅人の恋が有ったかもしれない、子供が馬に撥ねられたかもしれない、嫁入りがあり葬列があり、花見に浮かれ、夕餉の匂いが街道を漂った。それを思うとき、人間というものの普遍性に気づかされる。いかに文明が発達しようとも、人間そのものの本質はそう変わらないものだと。
 人々の生活を支えてきた街道の永遠に、敬虔な気持ちすら湧いてくる.

 太閤様も紀州侯も象も通った枚方の街道。遊女も宗佐の辻までは客を見送ったという。