川上恵(沙羅けい)の芸術村
 
ホーム  エッセー  旅  たわごと  出版紹介 
河内再発見
  

                   少年たちの夏休み 

  
     学校が夏休みになると、何箇所かある村の掲示板には一斉に、
     「大峰詣で」の張り紙が張り出された。
     私の住む河内の村では、男の子が小学校の高学年になると、山伏の小父さんに連れられて
     大峰山に登るのが慣わしであった。
     頭に一角獣のような頭襟を巻き手に錫杖を持った小父さん達は、
     常は百姓であったり魚屋であったりしたが、
     白衣を着けると急に山の神様になった。だがお山に登れるのは男子だけで、
     女の子にとっては垣間見ることさえ許されない禁断の世界であった。

     「どうして女の子は登られへんの?」
     「女は穢れているそうや」、祖母はこともなげに答えた。
     穢れた女から産まれた男が穢れていないというのも、不思議なことだなと思った。
     私は多分に理屈っぽい少女だった。

     ある年、同級生で一番腕白の圭太君がお山に登ることになった。親に孝行するかと、
     高い崖の上から谷底を覗かされるらしいと、男の子たちは恐々としていた。
     「俺はな、絶対ウンって返事せえへんねん。オッチャンら困らしたんねん」と、
     圭太君は意気揚々とほら貝の音について行った。
     だが後日、友達から聞いたところによると、崖から深い谷底を覗いた途端、
     「します! します! ぜったい親孝行します!」と、甲高い声で叫んだそうだ。
     友人はこうも付け加えた。
     「おっしこ、ちょっと漏らしたそうやで」
     そんな彼はいまでは先達となって、修験道の道先案内人となっている。
     修験道、それは金剛葛城の峰から始まった。
 
     むかし夜な夜な南河内の空を、我が庭狭しとばかりに、スーパーマンが飛び回っていた。
     彼は赤いマントの代わりに頭巾を被り、一本歯の高下駄を履き、金剛の山を拠点に、
     日本中、思うがままであった。
     その飛翔力のすごさは、北は出羽三山に始まり、吉野大峰は言うに及ばず、
     南は九州英彦山に至るまで、実に二十六もの峻険な山々を巡っているのである。
     かと思えば、流刑地の伊豆から海を歩き、毎晩富士山に登り修行したというから驚きである。
     日本で始めてのアルピニストだ。

     その名を役行者、あるいは役小角・役優婆塞という。
     行者堂のある寺院では必ずといっていいほど、痩せた彼の姿にお目にかかれる。
     二匹の鬼を従えた像は馴染みである。河内のスーパーマンは超有名人なのだ。
 
     役行者は修験道の開祖である。
     山に超自然的な威力を認め、また霊的存在とみなす山岳信仰が、
     役行者の出現により仏教とも習合して修験道がうまれた。日本という国は信仰の面において、
     包容力のある豊かな国である。山や川、巨木や岩や田、トイレに至るまで神が宿る。
     自然ばかりではない。狐や狸、蛇も信仰の対象である。
     これだけの神々に見守られ祝福される民族は、そう多くはないだろう。

     超人の常として、役行者もまたキリストと同じく処女受胎である。
     金色の独鈷杵が薄紫色の雲に乗り降りてきたのを、母親が口に入れ飲み込む霊夢を見て、
     小角を懐妊したと伝えられている。母親に夫はおらず、しいて言えば独鈷が父親である。
     神や超人は人間の営みから産まれては、神秘性が軽減するのだろう。
     処女受胎というのが、洋の東西を問わずのお約束事であるようだ。
     彼は孔雀明王の術を会得し、妖術を使い悪鬼を退治したり、三世前の自分の遺骸にあったり、
     入定した後もインドへ渡り龍樹菩薩と遭ったり、三蔵法師が日本に来て、
     胎蔵宗を広めたいと申し出た際にも、「まだ機が熟さないので、百年後に来るように」と、
     答えたとか。とかくエピソードに事欠かない。

     余談になるが、役行者が従えている二匹の鬼は夫婦である。
     斧を持っている前鬼が夫で、壷を手にしている後鬼は妻である。
     この鬼達は生駒山で調伏され、家来になったとか。この絵面、どこかで見たようなと思ったら、
     水戸黄門であった。二匹の鬼は助さん格さんだ。

     脈々と受け継がれる大峰詣で、今年の夏も河内の地では、
     山伏の卵達が誕生しただろうか。ほら貝の音は村を練り歩いただろうか。
     女は穢れているそうや……遠い昔の祖母の言葉に、そうかも知れないと頷いている自分がいる。
     だがこの穢れの、なんと神聖で芳醇で、変化に富んで面白いこと。
     女は変幻自在の術を使う魔物。男はこの魔物に打ち勝つ自信が無かったのだ。
     それが女人禁制の理由に違いない。――男には男だけの遊びがあってもええやないの。
     女も女だけの遊びを持てばいいこと。案外女の方が人生において、美味しいのではないかと、
     最近つくづく思うのだ。

     守れ権現 夜明けよ霧よ 山は命の    みそぎ場所 六根清浄 お山は晴天 


                                           
                                       修験心鏡抄・役行者顛末秘蔵記 参照