川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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ファースト・メッセージ
    ―― 祖母の忘れ物 ―




    額の真ん中に大きな黒子があって、子供心にもそれは、観音様の白ごうのように思えた。
    黒子は艶やかで、ぷっくりと膨らみ面長な祖母の顔によく似合っていた。
    私は、優しく上品で美しい祖母が、誰よりも好きだった。十八歳になるまでの思いでの
    中では、祖母に叱られた記憶は一度もない。
    ことのほか、私には優しかったようだ。

    祖母の家は、村でも有数の旧家で、呉服屋を営んでいた。
    長男夫婦と同居し、恵まれた日常だといえた。
    五人の息子や娘達は皆、近くに住み、呉服商、米穀店、工場主、薬局など、それぞれに裕福な
    暮らしをしていた。
    そんな中で、私の家だけが貧しかった。

    昭和三十年前半、離婚はまだまだ珍しい時代であった。
    母に引き取られた私と弟は、いとこ達のように、何不自由のない毎日というわけには
    いかない。
    不憫だったのだろう。祖母は一日の大半を、裏手にある私達の小さな家で過ごした。
    洗濯物をたたんだり、火鉢の上で煮炊きものをしたり、細々と出来る範囲の手伝いをしては、
    食事の時だけ自宅へ帰っていく。そのお陰で、私達は母が勤めに出ている留守中も、
    寂しい思いをせずにすんだ。

    ある日、急に何を思ったのか、学校から帰る私を待ち受け、いろはを教えてほしいと言う。
    真剣な表情だ。
    「お祖母ちゃん、字、書かれへんの?」
    明治生まれの祖母は文盲だったのだ。なんでも出来る人だと思っていたのに、
    ショックだった。
    意外でもあった。
    私は十六歳になるまで、この事実に気づかなかった。
    「八十五歳を過ぎて、何もいまさら、字なんか勉強せんでもええやないの、大変やよ」
    素っ気無い私の言葉に、迷惑はかけないからと、いつになく執拗に言う。
    どうして字を覚えたいのか、何度聞いても笑うだけで答えない。

    その夜から、祖母の勉強が始まった。
    私は一日に二文字ずつ教えることにした。
    最初は簡単な「い」と「し」。
    使い古したノートの余白に、鉛筆をなめなめ、ちゃぶ台の上で一心に書く。
    「 鉛筆なめたら、体に毒やよ」
    そのたび、高校生の私は注意をする。
    背を丸め、指先に力を込めて書く字は、幼児のもののようだ。
    ノートいっぱいに「いいい」……「ししし」が並び、私は赤鉛筆で大きく五重丸をつけて
    あげる。
    祖母は照れくさそうだが、満更でもない顔で、
    「おおきに」と言う。
    字を習うのが嬉しそうだ。

    次の夜は「く」と「こ」。書ける字、読める字が少しずつ増えていく。
    暦や掛け軸から、知っている字を拾い読みしては合っているかどうか、不安げに私の方を
    振り返る。
    何夜目だったか、「ふ」がどうしても書けないでいる。字が横を向くのだ。
    この時は、とうとう癇癪を起こし、祖母は疲れたと言った。
    「せ」と「さ」は混同するらしく、目を宙に据え、考え込む。「そ」や「ぬ」も難しそうだ。
    反対に無理だろうと思った「ゆ」は上手に書いた。風呂屋の暖簾で覚えたらしい。
    ノートに向かう夜が、何ヶ月続いたのだろう。ひら仮名五十五文字は、どうにかマスターした
    ようだ。
    しかし、濁音、半濁音は最後まで理解しにくいようだった。

    何がきっかけで口論したのだったか。
    正確には口論といえるものではなく、私は一方的に祖母を責め、困らせた。
    あまりの口答えに対応する術もなく、
    茫然と私を見つめる祖母だったが、体内では怒り、悲しみ、情けなさが渦巻いていたの
    だろう、顔に血の色がのぼり指先は小刻みに震えた。
    必死に言葉を探しているのだろう。もどかし気だ。
    言葉が見付かったのか、何か言いたそうに口を開きかけたが、言葉は出ず、代わりに
    唇の端から
    涎が流れた。
    そして、その場に崩れ落ちた。突然の出来事であった。
    祖母は最後まで私を叱らない。
    庭先のカンナの花が妙に赤かった。
    その日を境に、祖母は寝付いた。

    三日間の昏睡のあと持ち直したが、もう以前のようにシャッキリとした祖母ではない。
    真夏でも、こざっぱりと浴衣を着、帯を貝の口結びにしていたのに、アッパッパ姿で寝たり
    起きたりの日々を過ごしていた。まれに気分の良い日があっても、字を教えてほしいとは
    言わない。
    勉強のことなど、さっぱり忘れたようだ。
    それとも、ひどく私のことを怒っているのだろうか。
    私の家にも来なくなり、手入れが出来ないからと、髪も短く切った。

    祖母の一日は、髪をすくことから始まっていた。
    毎朝十時きっかりに私の家にやって来て、塗りのはげた姫鏡台の前に座り、髪をほどく。
    背中の中ほどまである、
    ほんの一握りほどの髪を、いつくしむように何度も何度もツゲの櫛ですく。櫛は油で飴色だ。
    大島の椿油が気に入りで、丁寧にすりこみ、頭の上で小さな髷を作る。
    あれほど鏡に向かうのが好きな祖母だったのに、耳の下で一文字に切り揃えられた髪は
    真っ白で、本で見た山姥の頭に似ている。白ごうのように見えた黒子も、
    艶やかさを失ってしまった。
    病気はこんなにも人を恐ろしく、悲しい形相にするのか。私の好きな祖母は、
    どうしてしまったのだろう。
    口論が悔やまれた。
    一年半近く、寝たり起きたりを繰り返しただろうか、桜にはまだ少し早い春の夜半、
    祖母は眠るように逝った。八十八歳であった。

    野辺の送りも済み、人の出入りも落ち着いた頃、母と伯母達は遺品を整理した。
    几帳面な祖母らしく見事な後始末ぶりで、旧い桐箪笥の中は整然としている。
    最後に上部の開き戸をあけると、小さな木の菓子箱が大事そうに仕舞われてあった。
    不審に思い蓋をとると、中から大粒の翡翠の指輪、真珠や珊瑚の帯留め、かまぼこ型の指輪、
    そして、金縁の眼鏡が出て来た。
    値打ち物ばかりに、母達はため息をつく。
    底に一枚、うっかりすると見失いそうだが、
    二つ折りにした懐紙が入っていた。

           めぐみに あげてくたさい
                  たのみます    かね 

    私の名前は恵、祖母の名は、かね。
    縫い物、料理、家事、障子張り‥‥、何でも上手に出来る祖母だったのに、遺書とも手紙とも
    言えない最初で最後のメッセージは、涙が出るほどに稚拙なものだった。
    背を丸め、やっぱり鉛筆を舐め舐め書いたのだろうか。鉛筆を舐めると、濃い字が書けると
    信じていた祖母だった。
    濁音に一個所だけ、点をつけ忘れて祖母は逝った。

    祖母が亡くなって、もう三十年以上にもなる。
    そういえば、カンナの花を見なくなって随分久しい。