川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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              四月三日

             

    私の生まれた村では、四月三日は『花見の日』と決まっていた。
    
肌寒い日が続き、桜の影が見えない年でも、四月三日は花見だった。
      その日村中は、早朝から甘酸っぱい寿司酢の匂いに包まれた。
    合わせ酢の匂いに交じって、干瓢や高野豆腐を煮含める甘い香りが、
    家々の戸口や窓から路地をくぐり抜け、通りに流れる。
    裕福な家もそうでない家も、例外なく巻き寿司を作るのだ。

    当時、食べ物や食材は粗末だった。
      海苔は艶ややかに光る漆黒のものではなく、くすんだ黒色の代物で、
    頼りなげな薄さだった。
    母は海苔を明かりにかざし、穴の有無を調べる。
    海苔の向こうに小さな明かりが見えようものなら、その部分に細く切った海苔で
    継ぎを当てる。継ぎの当たった部分は噛み切るのに、ほんの少し苦労をした。

    具は卵焼き、三ッ葉、干瓢、高野豆腐、そして、自家製の古漬け沢庵と、
    紫蘇色の紅生
姜だった。巻き上がった寿司は、行儀よく重箱につめられる。

      正月を除き、夏祭り・秋祭り・そして花見が村の三大イベントだった。
    大正時代から続いている行事だそうで、
    中河内郡三宅村が松原市三宅町に変わっても、脈々と受け継がれてきた。
    三宅町特有の風習だ。

    行き先は近くの大和川の土手か、遠くても玉手山だ。
    花の下で大人達は酒を酌み交わし、寿司を頬張る。
    子供達はお互い取り代えっこをし、よその巻き寿司の味を知るのだった。
    普段はしかめっ面をしている小父さん達も、この日ばかりは饒舌で、
    大人との距離がふっと縮まるひと時だった。 


      だが大和川の土手には、桜の木が一本植わっているだけだった。

      最近は桜が増えすぎて有難味が減ったと感じているのは私だけだろうか。
      思いもよらない所で、ばったり桜に出くわした時の嬉しさと驚き、
     「あっ、桜! 桜が咲いてる。それにしても綺麗やねえ」と、
    思わず洩れる独り言。これこそが私にとって、桜の相応しい愛で方なのだ。
    天邪鬼のせいだろうか。
    清楚にして絢爛、花弁の湿ったような冷たさ、昼と夜で風情が異なるおもしろさ。
    夜桜の妖しさにいたっては、魔が潜んでいるとしか思えない。
    死体が埋まっているとまでは言わないが。

      河内には桜の名所が多い。
      山沿いをはしる東高野街道沿いは、さながら桜回廊である。
    
    北から南へ順を追っていくと、まずは交野市にある大阪市立大学付属植物園。
    動物園ほどではないが、大人になると足が遠のく場所がある。
    植物園もそのひとつだ。広大な敷地に四季折々の花々。ふかふかの地面、
    香しい空気、中高年にこそお勧めの場所なのに……なにより人疲れをおこさない。

      三月中旬の早咲きから、奈良八重桜が終わる五月上旬まで、
    約二か月間も花見を楽しめる。おまけに天野の里の風景が素晴らしい。


      中河内の八尾市では、蔕文庫舎の近くを流れる玉串川が圧巻である。
    五キロにわたり千本の染井吉野が桜のトンネルを演出する。
    落花の頃はさらである。花吹雪が水面を舞い散り彩るさまは凄艶だ。
    花筏も風情がある。昭和四十年頃から周辺の住民が植樹の賜物だ。

    少し下って、柏原市の玉手山・富田林市のPL
    共に遊園地は無くなったが桜は美しく健在だ。
    花の下陰からは当時の賑わいが聞こえてきそうだ。
    
PLの塔を取り囲む広い敷地には一万四千本が咲き誇るとか。
    玉手山といい
PLといい、辺り一面にピンクの霞が棚引いている。

    桜と言えば西行。和歌山との県境河内長野市に、西行終焉の地、広川寺はある。                               

       願わくば花の下にて春死なん   その望月の如月のころ

      願い通り陰暦二月一六日、釈迦涅槃の日に入寂を果たすわけだが、
    後、西行を慕っていた似雲法師により供花の桜が植えられたという。
    春には桜、夏は緑陰、秋は紅葉に抱かれ、西行墓は静寂のなかにある。


      なお、樹齢350年以上もある境内の海棠桜は、風格ある可憐さで天然記念物である。


      あの頃から五十年が過ぎ、村から甘い酢の香りは消えた。
    妙なもので、私は今も桜の頃になると、沢庵や生姜入りの巻き寿司が食べたくなる。
    いまや巻き寿司は節分の丸かぶりが定番となってしまったが、
    花見にこそあらまほしと思っていると、従妹から電話がかかってきた。


     「私、今でも四月三日には寿司を巻いてるねん。あの赤紫色の紅生姜も一緒に。
    今年はあんたの分も巻いといたげる」

     「玉手山に行って花見がしたいねえ」
      重箱の蓋を開ける瞬間のときめきが甦る。