川上恵(沙羅けい)の芸術村
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  河内再発見
                  
                山麓の墓地




     二上山の麓に墓地を買った。
     離婚をした母には入る墓がない。ここ何年かに姉が逝き、兄が亡くなり、
     六人いた兄弟が母一人になってしまった。
     さすがに呑気な母も、自分の行く末が気になりだしたのか、私が死んだら、
     どこの墓にはいるのだろうかと、口にするようになった。

     旧姓に戻っているのだから、実家の墓に入るのが筋でしょ、両親も一緒だから寂しく
     なくて、いいじゃない。
     そういう私の返事に、
     「なにしろ出戻りだから……。狭い骨壷の中で気がねしながら、小さくなっているのは
     かなわない。肩身が狭いもの」
     楽天家の母が、墓のことを気にするのが、なんだか可哀想になり、それに母の言い分も一理
     あると、きゅうきょ弟と墓地探しを始めた。

     三、四か所、候補地を見て回ったが、墓地が雑然としていたり、家から遠かったりと、
     なかなか母の気に入る場所はない。
     だが最後にもう一ヶ所だけと立ち寄った、山麓の墓地を見るなり、

     「ここが気に入った! 二上山が真正面に見えて気持ちがいいねえ。
     この景色なら毎日眺めていても、見飽きることがない。次に誰かが入ってくるまで、
     山を見ながら機嫌よう待ってる」
     その一言で、そく購入することに決めた。

     丁度よい具合に角地が空いている。
     角地は日当たりも風通しもよいと、住宅地を買う感覚で、隣り合わせに二区画買った。
     ついでに私達夫婦の分も買ったのだ。
     骨になってしまえば、太陽の光も涼やかな風も、関係ないようなものだが、
     いとも簡単に衝動買いをした。
     帰り道、母は晴々とした顔で言った。
     「これで気分が落着いた。もう何の心配もないから、思う存分長生きができそうだ」


     衝動買いをした墓地は、聖徳太子が眠る叡福寺(えいふくじ)に隣接する、叡福寺霊園
     である。
     死後の世界を信じる私には、太子の懐に抱かれるようで、心強い。
     だから最近、歴史学者の間で論議される「聖徳太子否存在論」なるものが、
     まかり通っては困るのだ。
     あくまで、旧一万円札の端整かつ、威厳ある太子でなければならない。
     太子信仰の祖、聖徳宗の宗祖でなければならない。

     聖徳太子は推古天皇二八年(620)に、南河内の磯長(しなが)の地を墓所と定めた。
     磯長は蘇我氏ゆかりの地であり、父の用明天皇と母はともに蘇我氏の血筋である。
     翌二九年、母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)が没し、ここに葬られた。
     続いて翌年、相次いで(一日ちがいとも、同日ともいわれる)、聖徳太子と妃の
     膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が亡くなり、追葬された。
     太子の死後、伯母にあたる推古天皇が方六町の地を寄進し、堂を建て、霊廟守護を
     置いたのが、叡福寺の始まりとされている。

     墓所である叡福寺北古墳は、直径50メートルほどの円墳だ。
     内部には三基の棺が安置され、三骨一廟とよばれている。
     中央に母である皇后が眠り、東側には太子、西には妃が横たわる。
     しかしこの配置、なんとかならなかったのだろうか。
     せめて太子が真ん中に眠っていればと、思うのだ。

     延々と続く、たった三人だけの世界。息が詰まりそうである。
     嫁姑の仲が険悪になったとき、太子はどのようにその場をおさめるのか。
     母親の頭上をまたぎ、「分かってる、よう分かってるって。ほんまは僕、君の味方やで」
     と、機嫌をとることもできない。
     君子であっても世の男性同様、見て見ぬふりを決め込むのだろうか。それとも、
     十人の訴えを一度に聞き分ける太子のことだ、二人の人間の話を同時に聞くことくらい、
     容易いことかもしれない。
     それにしても、気苦労なことだろう。

     地下世界の事はさておき、叡福寺の境内は伸びやかである。
     階段を上り南大門を潜ると、境内いっぱいに空が広がり、
     真正面にこんもりとした御廟の杜が目に飛び込んでくる。漂う空気も、清浄で透明だ。
     
     付近には敏達天皇(びだつ)・用明天皇・推古天皇・孝徳天皇の陵が点在し、
     「王陵の谷」とも「梅鉢御陵」とも呼ばれている。
     太子廟を中心とし、それぞれの御陵の位置が、五輪の梅の花の形に似ているのだ。

     先進の地であった南河内の近つ飛鳥。御陵と竹之内街道だけが、当時を偲ぶよすがである。


     しかし母はわかっているのだろうか。父方の姓を継いだ弟は、父の墓で眠るかもしれない
     ことを。
     そうなれば、未来永劫、母はたった一人で、山麓の墓地で眠り続けなければならないのだ。
     暗い闇の底で……。
     肩身が狭くとも、両親や兄弟と一緒の方が、賑やかで良かったと後悔しないだろうか。
     それとも田舎の隣り近所よろしく、母は毎日、私達の骨壷まで遊びにくるのだろうか。

     「これで安心して長生きができる」の言葉どおり、母は今年米寿を迎ええる。