川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                  最後の審判



     姉の登志の臨終に立ち会ってからというもの、衿子はふさぎこむ日が多くなった。
     姉の死によって、心にぽっかりと大きな穴があいたのは勿論だが、
     ふさぎの原因はそれだけではなかった。
     死と同じくらい恐ろしいものがこの世に存在することを知り、自分に自信が持てなく
     なったのだ。


     昼の熱気がまだ残る夜半、ベッドの周りに身内の者たちが呼び集められた。
     登志の夫の伸太郎、娘の里奈、息子の充、母の芳乃、そして衿子の5人は代わる代わるに
     登志の手を取り励まし続けた。
     薄い皮膚には血管が青く透けて見える。浮き出た血管はくねくねとうねり、
     生き物のようで、気味が悪い。
     「……有難う、とっても幸せだった。……里奈、充、元気でね……
     お母さん先に逝ってごめんね、衿子、お母さんを頼んだわよ……
     貴男、子供達のことを頼みますね……」
     家族思いの登志は苦しい息の下から、途切れ途切れながらも、常と同じように家族を
     思いやる。
     そして「頼みますね」の言葉を言い終えると、安心したのか昏睡に陥った。
     どこまでも立派な姉だった。一部の隙もない臨終の迎え方だった。

     登志は良妻賢母の見本のような女性だった。
     いつも笑顔を絶やさず、夫や子供達の為に家事をするのが楽しくて仕方がないという
     風だった。
     「バッカみたい。いったい自分の人生はどうなのよ」
     衿子の言葉に、貴女も結婚すれば分かるわよ。
     夫がいて子供がいて幸せよ。そして決り文句のように「衿子も早く結婚なさい」
     と言うのだった。


     登志が眉間に皺をよせ虚空に手を泳がせ、何やら呟いている。
     何かを掴み取ろうとするかのように、縋りつこうとするかのように、しおれた手は虚しく
     宙を泳ぐ。
     それにつれ、青い生き物もくねくねと宙を泳いだ。
     きっと子供たちを探しているのだと、芳乃は里奈と充を登志の傍らに立たせた。
     「何なの、お母さん。よく聞こえない。もっと大きな声で言ってみて」
     高校生の里奈が母親の口元に耳を近づけ、吐息のような言葉を聞き取ろうとしている。
     「夢うつつの世界ですから、本人にいま自分が話している自覚はないのです」
     看護婦がモニターに映し出された心臓の波形を見ながら、そう説明をする。
     「無意識なのですか?」伸太郎は痛ましそうに妻の顔を撫でた。
     ピッピッと音を立てながら、低くてなだらかな緑色の山形線が続いている。
     その音は暗鬱な空気をより暗鬱にする。

     「……コウさん……コウさん、コウさん……」
     細い吐息が焦点を結び一つの言葉となった。
     登志は苦しい息の下から振り絞るように、コウさんを繰り返す。
     『コウさんって誰なの? 初めて聞く名前ね……まさか?』
     だが衿子には分かった。妹としての直感だった。
     多分、男性の名前、いいえ、間違いなく男性の名前。
     それは、同じ遺伝子を持った、血としかいいようのない直感だった。

     『お姉ちゃん、こんな所でそんな名前を呼んではいけないよ。
     お姉ちゃんはいい人なんだから。     
     子供たちが聞いてるよ、お義兄さんが聞いてるよ、お母さんだって。
     お姉ちゃん駄目だよ、そんな人の名前を呼んじゃ。
     お姉ちゃんがお姉ちゃんでなくなっちゃうよ。お姉ちゃんが築いてきたものが
     こわれちゃうよ。
     お願い最後まで気を抜かないで、お姉ちゃんは主婦の鑑なんだから。駄目よ、駄目だって。
     お姉ちゃんは美しく正しく死ななきゃならないのよ』
     衿子は姉の口を塞ぎたい衝動を、かろうじて堪えた。
     医者と看護婦の出入りが激しくなった。


     こんなことがあっていいのだろうか。いましがた聞いた言葉は空耳ではなかったか。
     姉の最後の言葉は夫の名前でもなく、愛する子供の名前でもなく、
     誰も聞いた事のない「コウさん」という名前だった。
     病室に気まずい空気が流れた。
     だが誰もがその言葉を聞かなかったように、泣く事に専念をした。
     泣く事で「コウさん」という言葉を忘れようとした。

     コウさんが晃一なのか、洸汰なのか恒次郎なのか、孝・功・耕……
     あるいはそれは衿子の考え過ぎで、頭にコウという字のつく女性なのか……
     それは家族にとって永遠の謎になってしまった。
     だが衿子は確信を持っている。姉が呼んだ「コウさん」は間違いなく男性だと。
     結婚前の彼なのか、それともいま心に住み着いている人なのか。
     苦しい吐息の最中、名前を呼びながら一瞬、姉は恍惚の表情を見せたのだった。

     閻魔さんは三途の川の向こう、地獄になんぞいないのだと衿子は確信する。
     閻魔さんは臨終の枕元に座っていて、最後の言葉を聞き取るのだ。
     意識という仮面を脱ぎ去った後の、真の言葉を。
     それで極楽か地獄か、行き先を決めるのだ。
     子供のころ見た極彩色の地獄絵が、病室の白い壁いっぱいに鮮明に広がった。

     登志はいい人≠フままで、人生を終えることが出来なかった。
     最後の最後に、本来の顔が覗いてしまった。
     意識がなくなって無意識になった時、心に押し隠していたものが細い息と共に
     露呈してしまったのだ。
     無意識になることの怖さを、衿子は見せつけられた気がした。
     姉はきっと地獄に落ちる、と衿子は足元が震える。
     そして疑惑が残った家族にも、地獄が始まる。
     立派に生きた姉よりも、「コウさん」と呼んだ最後の瞬間の姉が、生き続けるのだ。
     姉は亡くなったけれど、亡くなってはいないのだ……記憶という厄介なものが存在する間、
     姉は生き続けるのだ。     

     死はこの上なく恐ろしいものであったが、最後の審判は死よりなお怖いことだと、
     衿子のうなじが凍りついた。

     あの日いらい、後ろめたい生活はもうよそうと、衿子は殊勝な気持ちになるのだった。
     意識と無意識のの間に寸分の隙間もあってはいけないのだ。
     それは空気の入り込む余地のないほどに、どこまでも密着したものでなければならない。
     嘘のない真正直な生き方とはそういうものなのだ、きっと。
     衿子には無意識という意識に、責任を持つ自信がなかった。

     この恋はもう終わりにしよう……他人の持ち物だもの……。
     衿子も姉同様、最後の言葉に自信が持てない気がした。
     「終わりよければすべて良し、か。そうそう、立つ鳥、あとを濁さず、っていうのも
     あったわね」
     手垢のついた諺を、衿子は自嘲気味に呟いた。