音
今年は狂ったように椿が咲いた。
ちょっと肥満気味の美女に似た大振りの花で、四海波というらしい。色は桃色だ。
シベの先にも小花がついていて、やがてそれは真っ黄色となり、
桃色の花にアクセントをつける。
ふつう椿は落ちてさえ、その姿を美しく保っているというのに、
四海波の落ち様は、べたりと花弁を開きだらしなく地面に寝そべる。
私はそんな椿の姿を見たくなくて、そそくさとゴミ箱に移す。
20年も昔のことだ。
当時、私のエッセーの1番の読者は息子だった。そして批評家でもあった。
そんな彼が、珍しく「いいな」と言った作品がある。
確かこんな内容だった。
会話の間のわずかな沈黙。これを西洋では「天使が通る」と言うそうだ。
男と女の間に沈黙が訪れた。
二人は黙ってコーヒーを飲んだ。
シャラ シャラ シャラ シャラ……
窓の外で微かな音がする。耳を澄まさなければ聞こえないほどの
ピアニッシモな音。
女は立ち上がって、指先で窓のブラインドをそっと押し下げ、
小さな隙間を作った。
雪だった。雪が降っていた。
「雪にも音があるのね」
窓を開けるとシャラシャラという音は、鮮明になった。
二人は黙って夜の雪に見入った。
雨上がりの庭先で、ポトリと音がした。
それは辺りの空気を振わせるほど、大きな音だった。
真っ赤な椿が瑞々しい姿のままで落ちていた。
落ちてさえその花は、なおも美しい。
まるで自分の落ち様を知らせるような音だった。
作品のタイトルは「音」だった。
思い入れのある作品なのに、紛失してしまって手元にはない。
覚えているのは、これだけ……。大意だけ……。
残念な事に、今の私には、涼やかな雪の音も、椿の落ちる潔い音も聞こえない。
微かで魅惑的な音は私の耳には、もう届かない。
私の耳には、季節外れの蝉が住みついてしまったから。
庭先の桃色の椿の哀しい散り様を見て、20年前を思い出したが、
息子は今もこのエッセーの事を覚えているだろうか……。
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