川上恵(沙羅けい)の芸術村
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                  猫坂の女



     猫坂と呼ばれる坂があった。
     ちょうど猫が背を丸めて眠っている格好に似ているところから、そう呼ばれていた。
     逆Sの字のカーブに、急な勾配の三十メートルほどの坂である。

     その坂を朝夕、決まった時間に登り下りする女がいた。
     三十半ばの女はいつも目立たない地味な色目の服を着、俯き加減に、
     密やかに足音も立てずに歩くのだった。
 

     弘三の家はそんな猫坂の脇にあった。
     初老の夫婦二人が住む、築二十五年の古びた二階建てである。
     だが弘三はこの三年間というもの、一度も二階へ上がったことがない。
     というより上がれない。
     脳溢血で倒れ、幸い一命はとりとめたものの、半身不髄となり寝たっきりの毎日なのだ。

     退屈な日々だが、彼には一日に三度だけ密やかな楽しみがあった。
     一度は妻が恩着せがましく連れ出してくれる午後の散歩。
     もちろんこれは天気の良い日に限られた。
     妻は弘三が外の空気に触れることを、どんなに待ち遠しく思っているか知らない。
     彼自身も自分の体が動かなくなって初めて知った楽しみであった。

     四角い部屋には限りがあった。
     日常なのに非日常の時間が流れる。それもごくごくゆっくりと。
     ブラウン管から流れてくる映像も、ただ騒々しいだけである。
     いつからテレビはこんなにもつまらなくなったのだろう。

     それに比べて外の世界のなんと広いこと、太陽のなんと暖かいこと、空気のかぐわしい
     こと。
     雲が流れる、木の葉が風に揺れる、子供達が追いかけっこをしている、
     主婦が立ち話をしている……
     たったガラス窓一枚を隔てただけなのに、なんと変化に富んだ光景なのだろうと、
     目頭が潤みそうになる。歳のせいなのか、それとも病気のせいだろうか、
     近頃、彼は涙もろくなって困るのだった。

     悪気はないのだが無神経で大雑把な妻には、絶対に知られたくはない潤みだった。
     そして後の二度の楽しみは、もっと知られたくないものだった。


     「……そろそろだな」
     弘三は目だけでベッド脇の目覚し時計を見やった。
     時計は七時四三分をさしている。 
     彼は猫坂に面した東側の窓を五センチほど開けた。
     少し冷気を含んだ朝の空気が、細い帯となって弘三の枕元に流れ込んだ。
     レースのカーテン越しに俯き加減の女の姿が、半分だけ見えた。
     初夏だというのに、女の服装は昨日と同じ茶色系の重苦しいものだった。
     多分、彼女は坂下の今時珍しい文化住宅に住んでいるに違いない。
     見たわけでもないのに弘三はそう信じ込んでいる。

     『まだ若いのに、もう少しお洒落をすればいいのに。よほど生活が苦しいのだろうか』
     女を見るたび毎度、声にならない声で呟いた。
     弘三が女の存在に気づいて、もう一年近くになるが、彼女が猫坂を上り下りする時間は、
     一度として狂ったことはなかった。
     朝は七時四五分、夕方は六時二十五分。違いといえば夕方は手にスーパーのビニール袋を
     下げ、足元が心持ち重そうなことぐらいだった。

     窓の真横に女がさしかかった。
     猫のように密やかに足音も立てずに歩く女だった。
     長い髪は十年一日のごとく、後ろで一つに束ねられている。
     弘三はかろうじて動く左手で、カーテンをほんの少し引き寄せた。
     表情に変化の乏しい女は、いかにも薄幸を背負っているようで心が痛む。
     やがて女の脹脛が窓を斜めに横切った。
     ぺったんこの靴のゴム底が見え隠れしながら坂をのぼった。
     あの女が真っ赤な靴を履いたらどんなだろうと、弘三は女の白い足に高いヒールの靴を
     履かせた。 


     その日の夕、女の密やかな足音は七時を過ぎても、聞こえなかった。
     今までに一度もないことだった。
     残業で遅くなっているのだろうか、それとも久しぶりに友人と会って、食事でもしている
     のだろうか。
     だがそのどちらでもないような気がした。女が誰かと楽しそうに喋り合っている光景は、
     どんなに想像力を巧みにしても、浮かび上がっては来ない。

     事故にあったのだろうか……。
     不思議なことに事故に遭い、救急車で運ばれている女の姿は容易に想像がつく。
     つくづく幸せとは程遠い女だと、少し前屈み気味の姿が浮かんだ。
     八時を過ぎても、枕元の時計が九時をさしても、女は坂を通らなかった。
     弘三の心配はもはや、事故の確信となった。――表に出て女の安否を確かめたい――
     ひとり心配をしている自分が、理不尽で滑稽で可愛そうで、また涙が滲んだ。
     今更ながらに動かない手足が恨めしかった
     猫坂はすっかり夜の底に沈んでしまった。

     そのとき坂の上の方から聞き覚えのなる、密やかな足音が聞こえてきた。
     『帰ってきた! 事故じゃなかったんだ』 
     間違いはない、朝夕聞きなれた靴音を聞き違える筈がなかった。
     弘三の鼓動は高まった。感覚のないはずの手足に生糸のような電流が流れ、
     微かに熱いものが体の中心部をよぎった気がした。

     夜の空気は鮮明にゴム底の音を、弘三の耳に伝えてくる。
     神経が常より鋭敏になっているのだろうか、馴染みのある歩調なのに、
     気だるそうに引きずっていない気がする。どこか軽やかなのだ。
     足音がだんだん窓に近づいてきた。女が外灯の光の輪の中に入った。
     手にはスーパーの袋はなかった。
     スーパーの袋を持たない女はなぜか弘三を不安にさせる。    
     自分の知らない所で起こった小さな変化が、いわれのない哀しい怒りになった。
     それが嫉妬心だと気づいて、弘三は苦笑をした。


     あの夜を境に、女の生活は微妙に変わった。 
     坂を上る時間は以前の通りなのに、下る時間が時折遅くなった。
     やがて朝の時間も遅くなり、夜は坂の上で車のとまる音がするようになった。
     女の服装は色彩豊かになり、後ろで束ねていた髪はショートカットになった。
     なにより女は硬い靴音を立てるようになった。
     コツコツと甲高いヒールの音が深夜の猫坂に響き渡った。 
     あれほど、格好の良い足にハイヒールを履かせたいと夢想したのに、現実のものになると、
     それはひどく耳障りな音だった。
     弘三の鼓膜にキンキン、突き刺さるのだった。
     やがて女は猫坂を通らなくなった。
 

     それにしても猫のような女だったと弘三は思う。密やかな足音、しなやかそうな体つき、
     媚びなさそうだった後姿……
     猫は家には居着かず、人に付くらしい。彼女はどんな飼い主に拾われたのだろう。
     可愛がってくれそうな男に、ふらりと付いて行ったのだろうか。
     中古のマンションでも買ってもらい、気散じに暮らしているのだろうか。

     男が放っておかない女がいる、男が放っておけない女がいる。
     『……彼女は放っておけない女だな』
     じっくりと見たことはなかったが、女の瞳が、今では糸のように細長く光っているように
     思えて仕方がなかった。
     そう思うことは少し寂しいことであった。

     弘三の楽しみは日に一度になった。
     「車椅子を押して、この坂を上り下りするのは、ほんとに大変なんだから。
     力持ちの奥さんを持って、貴男は幸せね。感謝してる?」
     「ああ……」
     気のない返事をしながら、坂の端に目をやった。

     「おっ!」と小さな声がもれた。
     コンクリートの割れ目から、蒲公英がまっ黄色の花を咲かせている。
     太くて丈夫な茎だった。
     こんな所にも花は咲くのだ。
     不意に、弘三はこの坂を歩いていた女を思った。つい昨日のことのようだった。
     『幸せだといいが……』
     女の瞳が日によって丸くなったり、細くなったりしようと、もうそんなことはいい。
     ただただ幸せになってほしかった。

     片側通行の知りあい、一年間のよしみ……
     薄幸の影は薄くなっただろうか。
     春風が急な勾配の坂を通りぬけた。