川上恵(沙羅けい)の芸術村
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             中河内郡三宅村   


     
   大阪府中河地郡三宅(みやけ)村。
   私が生まれ育った村である。
   村のまわりは一面の田畑だ。大半が農家で退屈なくらいにひっそりとした村だった。
   家から北に20分も歩くと大和川だ。

     川は奈良県から堺市をへて、大阪湾へと流れ込む。
     三宅村は堺市近くの下流沿いにあった。
     川を挟んで北側が大阪市で、南側が三宅村である。
     川には小型のオート三輪や、荷車が通れるほどの木の橋がかかっていた。
     オート三輪は砂埃を巻き上げながら、橋を渡った。
     だがその橋は昭和29年に、高野大橋が架橋されると同時に姿を消した。

     両岸には大人の背丈を越すほどの葦が茂っている。
     夏などは草いきれで息苦しいほどだった。
     現在の大和川からは想像もできないが、橋桁のあたりは水深も深く、溺れ死ぬ子供もいた。
     だが夜ともなると、蛍の青白い光りが闇に曲線の光跡を描いた。

     少し上流には、明治橋と大正橋がかかっている。
     とうぜん、下手の三宅村と大阪市の瓜破を結ぶ橋は昭和橋のはずなのに、
     なぜか橋の名前は「高野大橋」。
     ふしぎに思った私は、まわりの大人たちに聞いてみる。

     「偉い人も通らはったという、ふるーい道の名前が、橋にもついているのと違うか」
     あいまいな答えが返るのみで、それ以上説明してくれる人はいなかった。
     村の中を真っ直ぐに伸びる道が「中高野街道」だと知ったのは、ずっと後のことである。

     中高野街道は大阪市平野区の杭全神社あたりの一里塚が起点で、喜連(きれ)・三宅・堺市の
     黒山をへて、河内長野に至る。
     そして河内長野で、東高野・西高野・下高野街道と合流し、高野山へと続く。
     平安時代には仁和寺の法王も通ったという。
     だがそんないわれのある中高野街道という名称を、村のどれだけの人が知っていただろうか……。


     村には通称「大門通り」と「裏道」があった。
     大門通りは菅原道真ゆかりの屯倉(みやけ)神社の鳥居に続く大通りで、本通だ。
     これが中高野街道である。

     通りには米屋、畳屋、八百屋、クリーニング屋、下駄屋、呉服屋、仏壇屋、駄菓子屋、
     荒物屋、うどん屋が低い軒の下で商っていた。
     村にはこれ以外に商店はなかった。
     道幅はボンネット型のバス一台が、かろうじて通れる窮屈さだ。
     軒先にはバスに注意を促すべく、赤い布切れがぶらさがっている。
     それでもバスは、ともすると軒先をかすったりした。     
     
     一方裏道は、墓地へと続く陰気な道だ。
     墓地の周囲もみわたす限り田畑だ。抜けるほどに高い空が、どこまでも広がっている。
     そんな空に時おり、墓地から薄紫色の煙が立ち昇った。
     黒い列で裏道がざわつく日だ。

     やがて村中が黄金色に包まれると、南の方角から笛や太鼓の音を響かせ、
     獅子舞がやってきた。
     1年中で村が1番活気づく日だ。
     獅子舞は一軒一軒あますことなく家々を回り、玄関口で
     「1年ぶりですが、みなさんお達者ですか。今年も伊勢からまいりました」と、
     獅子頭を肩にのせ挨拶をし、荒神払いのあと護符をさずけた。
     村は3日間、笛や太鼓の音で賑わった。
     せまいが人情豊かな村だった。

     ところが小学2年生の冬の日、村の名前は「大阪府松原市三宅町」に変わった。
     子供心には突然の出来事だった。私の知っている三宅村がどこかへ消えてゆくようで寂しかった。
     悲しさとはどこか違う、寂しさという感情を知った最初である。
     昭和30年2月1日のことである。

     何年か前の事だ。
     ある朝テレビをみていると、三宅町が映っていた。
  
     パンツパンツ1枚で泳いだ大和川、屯倉神社、しめなわを張った巨木の楠、大通りを1本脇に
     それた古い家並み。
     小母さんたちが日本手拭で、姉さん被りをして働いていた模造真珠の工場跡 ……。
     そこにはまだ、微かに中河地と呼ばれていた頃の名残があった。

     いまだに軍鶏(しゃも)を飼っている人がいた。
     広い庭先で飼われている2羽の軍鶏は、レポーターがけしかけても飛びかかってくる気配がない。
     サービス精神旺盛の小父さんは、闘鶏の片鱗でも見せようと、あの手この手でけしかけるのだが、
     鳥はやはり知らんぷりだった。

     「おかしおまんな。かかってきまへんなあ」
     レポーターに向かって、心底すまなそうに言った。

     レンズを通して見る生まれ故郷は、格別だった。
     こんな風情あるところに私は住んでいたのか、ここで私という人間の核はつくられたのかと、
     妙に神妙になった。

     だがバスがクラクションを鳴らしながら走っていた大門通りに人影はなく、店屋の殆どは
     表の戸を閉めていた。
     テレビの画面はそんな街道を映し続けた。