川上恵(沙羅けい)の芸術村
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                    南向きの家



  離婚届を出す前に、私はある場所を訪ねてみようと思った。
  三十年間にピリオドを打つ感傷だった。
  私鉄沿線の郊外の町は、ずいぶん様変わりしていた。
  所々に残っていた田畑は姿を消し、高層のマンションや店舗が建っている。
  こう変わってしまったんじゃ、もうあの建物はないだろうと、気落ちしながらも記憶をたどり、
  二つ目の信号を曲った。
 
  嘘でしょと、思わず声が漏れそうになり、慌てて手で口を押さえた。
  嬉しい期待はずれに背筋が震えた。
  古い木造の文化住宅は、マンションの影に隠れるようにひっそりと残っていた。
  そこだけが時代から取り残されたような空気が漂っている。
  私達が住んでいたのは二階の一番南側だった。下に四戸、上に四戸の小さな文化住宅だった。
  青い瓦の色も、鉄製の階段も、入り口の桟の入ったガラス戸も、古びてはいたが当時のままだ。
 
  私は足音を忍ばせながら階段を上った。それでも階段は微かに音を響かせる。
  私達がいた部屋に、赤い実のついたドライフラワーの小さなリースが掛かっている。
  「可愛いリース。いい人が住んでいるみたい……」
  不思議な安堵感と、同じ部屋を共有したという連帯感めいたものが湧き上がってきた。
  私は息を凝らしながら、艶やかな赤い実に見入った。
  不意に入り口が開いて、赤ん坊を抱いた若い母親が顔を覗かせた。
  きっとガラス戸に、私の影が映ったに違いない。
  化粧っ気のないはちきれんばかりの白い頬は、健康的で素朴な人柄を思わせる。

  「ごめんなさいね、驚かせて。昔ここに住んでいたの。
  昔といっても、貴女が生まれるずーっと前よ。急に懐かしくなって、この辺りを訪ねてみたの」
  そうだったんですかと彼女は微笑んだ。
  赤ん坊は歯が生える頃なのか、歯茎がこそばゆいらしく、ブーともプーともつかぬ声を出し、
  しきりに口を動かしている。 涎が流れるたび母親は、ガーゼのハンカチでぬぐってやった。
  当たり前の光景なのに、崇高な営みを見るようだった。

  「入ったところが四畳半で、奥が六畳、トイレがそこに付いているのよね。変な間取りだったわ。
  台所は確か板張りの  二畳……」
  「よく覚えていらっしゃるんですね」
  「だって、私達のスタートの場所ですもの。忘れられないわ。この部屋は日当たりがよくって、
  オムツがよくかわいたも のよ。この赤ん坊と同じ男の子よ」
  あのころ、私達はよく笑った、よく話した。
  深夜、階段を駆け足で上ってくる夫の靴音は弾んでいた。その足音に私の心も弾んだ。
  遠い日々が蘇る。
  最近、夫はどんな靴音を響かせているのだろう。何年も夫の靴音など無関心に暮らしてきた。
  多分、大病を患った夫の靴音は、左右アンバランスに違いない。右足はときどきつっかえ、
  地面を擦る音がしているに 違いない。
 
  赤ん坊が動くたび乳臭い匂いが流れた。
  「抱かせてもらってもいい?」
  ふわふわに柔らかいのに、持ち重りのする確かな手ごたえ。
  私の両腕は、芯のある確かな重さを、忘れてはいなかっ た。愛しい重さだった。
  鼻の奥が熱くなった。
  私は壊れ物を抱くように赤ん坊を抱いた。 赤ん坊は泣きもせず私に抱かれている。
  やり直せるかも知れないと、私は思った。