川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                  メトレス


     響子はメトレスという言葉の響きが好きだった。
     私はメトレス、愛人じゃない。
     意味は同じでもその響きはお洒落で、アールグレーの香りがするようだった。
 
     郊外に小さな一戸建ての家をねだり、響子は自由気ままな日々を過ごしている。
     彼は30近くも年上だ。そんな彼に愛があるのかないのか……、
     ある日もあれば、ない日もあった。
     だがここでの生活は気に入っている。

     芝生に白いテーブルと白い椅子。その椅子に座って、ゆっくりとお茶を飲む。
     溢れるほどの自由な時間、願えばいくらでも出てくる魔法の財布、恵まれた容姿に
     若さ……。
     「ほんとに神様って不公平ね。でもこんな不公平は大歓迎」
     足元のサクラに声をかけた。
     彼女はおもねるように響子を見上げた。

     響子の仕事は1日にたったの1つ。犬の散歩をすることだけだった。
     不思議にそれだけは続いている。
     犬は雑種の雌犬、毛並みもありふれた茶色だ。
     雨の日に迷い込んだままこの家にいついている。
     雨にこもった子犬特有の匂いと体温に、ふっと気まぐれが起き、その気まぐれが珍しく
     今も続いていた。
 
     当初、彼は犬が好きなら室内犬にすればいいのに、といった。
     メトレスにはメトレスが飼うに相応しい犬があるのだろう。
     そう、マルチーズかポメラニアン。
     だが、ペットショップに行くのも面倒だった。 
     それになぜか、平凡な雑種というのが、気に入った。重荷にならない玩具みたいで。

     小春日和の暖かさが心地よい午後だった。
     今日の響子は、なんだか優しかった。数ヶ月に一度、こんな優しさが舞い戻ってくる。
     悪女を気取っているのに、思い出したようにその感情は背中の辺りから胸の谷間に
     回り込んでくる。
     そんな心の揺らぎが、散歩の時間でもないのにサクラを外に連れ出す気にさせた。

     いつもより時間をかけて公園を歩いた。そして木のベンチに腰掛けた。
     ベンチはほのかに暖かかった。
     緩やかに時間が流れ、陽の光りが春の近い事を告げていた。
     瞼を閉じて太陽に顔を向けると、目の奥に朱色がいっぱいに広がった。
     もっと強く瞼を閉じると、朱色は緋色になり、やがて牡丹色に変わった。
     その色彩の豊かさ濃密さは、響子をこの上もなく幸せにする。
 
     サクラはどうしているのだろうと目をやると、彼女は鼻先を宙に向け、
     思慮深そうな顔つきで空気の匂いを嗅いでいた。彼女も目を細めていた。
     「サクラ哲学者みたいだね」
     濡れた黒い鼻先に風がそよいだ。
     サクラと響子は同じ感覚を味わい、共有しているようだった。
     彼女の瞼の奥にも牡丹色は広がっているのだろうか。
     響子はサクラの首筋を優しく撫でた。彼女はいよいよ目を細めた。

     「……サクラ……」
     胸の谷間の優しさが、なぜだか不意に痛みに変わった。
     同じ時間、同じ空間、そして多分同じ感覚を共有しているのに、
     彼女に首輪が巻きつき、鎖に繋がれているのは理不尽な気がした。
     サクラは幸せなのだろうか……この小さな頭で、毎日何を考えて生きているのだろうか。
     食べる事、寝そべる事、そして浅い眠り、稀に機嫌の良い時の響子とのの戯れ。
     そして散歩。
     それが彼女のすべて。
     こんな風にサクラを見たのは始めてのことだった。
     厄介な心の動きだった。
     今日の優しさは、なかなか執拗だった。

     鎖の長さ、たった1,5メートルの範囲が彼女の世界のすべてだった。
     響子は鎖から手を離したいと思った。
     響子が餌をやり忘れたら、彼女の食事はお預け、サクラの生死は響子の手の中にあった。
     この鎖をはずさない限り、彼女に自由はないのだった。
     サクラは生きている限り、鎖のついていない感覚は知らないのだ。
     いつも何がしの重さを感じているのだ。
     死んではじめて首輪や鎖のない軽やかさを知るのだった。
     だが死んで何が分かるというのだろう……。

     鎖を離したい衝動はますます強くなる。
     鎖から手を離せば、一目散に遠くへ駈けだし、逃げ去ってしまうのだろうか。
     それとも、鎖のない自分に不安を覚え、心もとない軽さに戸惑い、じっと響子の足元で
     途方にくれるのだろうか。

     私と同じだ! 
     私も鎖を引きずっているんだ! ほんのちょっとその鎖はサクラより長いだけ。
     鋭い矢が響子を射抜いた。
     今までそんな事を考えたこともなかったのに、突然のその思考は衝撃的で恐ろしかった。
     メトレスという甘やかな響きを、意味のない空虚なものにするようだった。
 
     あわてて響子は頭を大きく左右に振った。
     そして、厄介な思いを思いっきり両耳から振り落とした。
 
     「サクラ帰るよ!」
     急に響子は乱暴に鎖をひいた。
     「やっぱり、室内犬にしておくべきだったかな」
     初めて響子は雨の夜の気まぐれを後悔した。

     その言葉の意味が分かるのか、それとも響子の気まぐれには慣れているのか、
     サクラは素直に従った。