川上恵(沙羅けい)の芸術村
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           幻の六大寺




     私が肉体を持たない存在となって、千数百年……。
     世の中の移り変わりをつぶさに、いや現に今も眺めているのでございます。
     私の年齢? それは、よしましょう。一応女性ですから。
     魂にも性別はあるのでございます。

     奈良時代の河内は、全国でも有数の寺院密集地でございました。
     信貴生駒山麓を南北一直線に、大寺院の伽藍が甍をつらね、朱塗りの五重塔が、その高さを
     競いあっておりました。
  
     四季折々に色合いを変える山並みと平行して、大和川が緩やかに北流しております。
     豊かな流れには遣隋使や遣唐使船が、赤い旗をなびかせながら、往来をいたします。
     船上には異国の人々の姿もみえました。

     そんな山と川の間に、三宅寺・大里寺・山下寺・智識寺(ちしきじ)・家原寺(えばらじ)・
     鳥坂寺の寺々が、4、5百メートル間隔に林立しておりました。
     もっとも当時は、メートルなどとは申しませんが。

     いくどもの天皇の行幸がり、行宮(あんぐう)も置かれ、それはそれは賑わっておりました。

     でもご覧のとおり、現在は跡形もございません。
     寒々と野ざらしの礎石を残すのみ。骸(むくろ)があるだけに、余計に侘しさを感じ、
     栄華のはかなさを思うのは私だけでしょうか。
     塔心礎は、あたかも大寺院の曝れ頭(されこうべ)でございます。

     夏草や兵どもが夢のあと
     ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず……
     とは、後世の芭蕉や鴨長明は、まことに旨く言ったものです。

     あれは聖武帝の御世のことでございます。
     帝は難波宮行幸の際、智識寺を参拝されました。
     智識とは、仏教を篤く信仰し、寺や仏像を造るために、私財や労働力を提供した人々を
     申します。
     智識寺はこれら喜捨の精神によって、建立されました。
     いまの柏原市あたりでございます。
     帝は智識寺の盧舎那仏をご覧になり、その大きさ智識の力に感銘をうけ、自身も大仏の
     建立を思いつかれます。
     さっそく、「それ、天下の富を集めるものは朕なり」
     と、大仏造立の宣命となりました。

     平安から鎌倉時代のものの本には、
     「和太、河二、近三」と、書いてあるそうです。
     大和の太郎が東大寺の大仏、河内の次郎が智識寺の大仏、近江の三郎が関寺の大仏と、
     大きさの三傑でございます。

     ちなみに奈良には「試みの大仏殿」と呼ばれる、喜光寺がございます。
     東大寺大仏殿はこの寺を参考に造られたそうです。
     してみると大仏殿や大仏様は、失礼ながら二番煎じではなかろうかと、私などは僻んだ目で
     見てしまうのでございます。
     魂になっても、まだ執着や我欲といったものは消え去らず、悟りにはほど遠く、
     お恥ずかしい限りでございます。

     だが、この二番煎じの、なんと壮大なこと、永遠なこと。
     私は大和の方を眺めるたび、ため息が漏れるのでございます。

     けれども智識寺の塑像の大仏様は、平安時代後期に伽藍が倒壊し、大仏様も微塵と化して
     しまいました。
     形あるものは無くなるのは世の常とは申せ、はかないものでございます。
     下々の者たちは、かように申しました。
     「しゃあないなあ、壊れてしもたもんは」
     「仏さんには済まんこっちゃけど、生きてるもんの方がもっと大事だっせ」
    
     以後、智識の力で寺院や仏像を建立することはなく、六大寺の末路は寂しいもので
     ございました。
     廃寺跡は薄が原と化しました。

     都が奈良から京へ移り、河内は以前の賑わいを失いましたが、それにしても、
     ここから見下ろす大和川は金波銀波に輝き、美しくも活気に満ちておりました。
     女達は流れに足をつけ声高に喋りながら、大根や牛蒡を洗い、洗濯をし、
     男達は夕餉の魚をつる。
     子供は素っ裸で泳ぎ、疲れては草叢で昼寝をし、一日中、笑い声が木霊のように
     響わたっておりました。

     ところが、私が少し眠っております間に、大和川の流れが南北から東西へと変わって
     おりました。
     驚いたのなんのって。大和川の付け替え(1400年)でございます。
     川の流れが変わるなど、一体誰が想像したでしょう。

     それでもまだ昭和の30年頃までは、川は生活の場でございました。
     女はあの頃と同じように洗濯をし、子供達は川遊びをしております。
     その中に、とても懐かしく思える女の子がおりました。
     抱きしめたいくらい無性に懐かしいのです。
     肉体を持たないのに抱きしめたいなんて、変だとお思いでしょうね。
     利かん気そうな顔をした女の子は、じっと山裾あたりを眺めるのでございます。
     まるで六大寺や私が見えているかのように。じいっーと。

     はるか彼方の二上の山には、死者達が眠っているとか申します。
     でも二上の山だけではないのです。
     私たちはこの河内の山麓に、六大寺を護るべく寄添い、今も眠り続けるのでございます。
     永劫に。

     少し話し疲れました。おしゃべりが過ぎました……。
     こんど目覚めたときは、昔のように蛍の飛び交う川を願いながら、すこし午睡と
     いたしましょう……。