川上恵(沙羅けい)の芸術村
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                       実録、楠木正成


     

     桜井の驛から眺める天王山の緑が清々しかった。山全体が若々しい生気にあふれ、
   さわさわと山容が揺れるようであった。三川が近いせいだろうか、空気が澄んでいて、
   透明な感じなのも心地よかった。正成の決心は、ここにきていよいよ確かなものとなった。


     建武三年五月(1336)、足利尊氏は数十万の軍勢を有していた。
   それに対し朝廷方は、その二十分の一の軍勢しか持たなかった。
   戦い上手の正成は、尊氏と和睦するか、あるいはいったん都を捨て比叡山に上り、
   手薄になった都に足利軍を誘い込んだ後、兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、
   いずれも聞き入れられなかった。
   だが忠臣である正成は逆らうことなく、新田義貞を総大将とする湊川の戦場に、
   死を覚悟で赴くのであった。


     初夏の桜井は河内の風景にどことなく似ていた。
   金剛葛城の峰々が赤坂の里が、しきりに思い出される。
   ワシとしたことが……、正成は苦笑しながら、馬を止めた。


    「正行、正行はどこにいてるんじゃ」
    「なんや、お父ん。ここにいてるがな」
    「いまからなワイが大事な事を言うて聞かすさかい、よう聞けよ」
    「うん、わかったお父ん」
    「アホ。こんな時はな。≠ヘい、父上≠ニいうもんや。おとんはあかんで。よう覚えとき」
    「……」
     「今からお前は赤坂へ去ね。いんで楠の家を守れ。河内の領地を守れ。お母んや弟の面倒をみい。
     ええな、それが跡取りの役目やぞ。ワシの代わりになるねんぞ」
     「うん、あっ、はい。ちち、父上!」
    「そや、そんでええ。言えたやないか。言葉は大事やで。
   これからは河内弁の他に美しい言葉も覚えや。貴族や武士はな、言葉で人を
   判断しよるさかい」

   傍らで控えていた家臣たちも、
    「そうでんな。ワイら切り合いしてても、相手がなに喋ってんのか、
   よう分からん時がありまんねん。おんなじ国の人間やのに、
   なんでこない言葉て違いまんねんやろな。」


     一里塚の榎がチロチロと木漏れ日をつくり、父子の上に小さな光の玉を降り注いでいた。
   陽射しは柔らかく、どこまでも優しかった。時に、正行は十一歳の童であった。

    
           青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ
           木(こ)の下蔭に駒とめて世の行く末をつくづくと
           忍ぶ鎧の袖の上(え)に散るは涙かはた露か

     一族郎党五百余騎で湊川へ向かった正成は、河内からの二百の援軍と共に
   六時間に渡って戦うが、次々に兵を失い、やがて七三騎となり自害を決めるのである。

    遠く沖べを見渡せば浮かべる舟のその数は
           幾千万とも白波の此方をさして寄せて来ぬ
           陸(くが)はいかにと眺むれば味方は早くも破られん

    「みんな、ご苦労さんやったな。もうこれまでや。ワイはここで腹切るさかい、
   お前らは上手いこと逃げや」

     「そんな水臭い、親方ひとり死なせまっかいな。三途の川をみんなで渡って、足利を待ち伏せして 
     殺(や)ったりまんがな」
     「ほんまだっせ。死ぬときはワシらも一緒だ」
  
     高揚した家臣たちは口々に死を申し出た。
     そんななか一人の老家臣が、
    「親方、死んだらあきまへんて。死んで花実は咲きまへんで。
   生きててなんぼのもんでっせ。生きてたら、また天下の情勢が変わって、
   足利を討つこともありまっしゃろ」

    「アホ抜かせ、女々しい事いうな。忠義ちゅうもんがあるやろ。しゃあないがな。
   ワイは武士や。悪党や」

    「ほんまや、親方の言わはる通りや。ここで逃げてみい、河内の人間が笑いもんになるわい。
   末代までの恥じゃ。しゃあない、しゃあない。ここでみんなで腹切ろ」


     断っておくが、この時代でいう悪党とは、悪人のことではなく強い人間をさすのである
 
       さはいえ悔し願わくは七度この世に生まれ来て
       
憎き敵をば滅ぼさんさなりさなりとうなづきて
          水泡(みなわ)ときえし兄弟(はらから)の心も清き湊川

     それにしても「しゃあない」、という河内弁。何と諸々を内包した言葉であろうか。
     得にならないことだとは承知しているけれど、それでもやらなければならない、
   という深い諦念と、聞くものに負担を感じさせない軽さ。
   それらを自他共に言ってきかせるのである。
   かくして楠木正成は南北朝の武将として、その名を長く後世に残すのである。