川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
ホーム  エッセー  旅  たわごと  出版紹介 



                  湖底の家



     “ひとり暮らしのアパートでー古い毛布にくるまって……みっつ違いの弟よ”

     「歌詞が違うよ。みっつじゃなくて一つ違いの弟よ、だよ!」
     カビの生えてそうな古い歌なんか、聞きたくないぞと、酔った客がだみごえで叫んでいる。
     「いいのよ、あれで。君ちゃんの弟は三歳下なんだから。酔うと決まって歌いだすのよ、
     よほど仲のいい姉弟だったんだね」
     ママの麗子がカウンターの中で、グラスを洗いながら話している。

     「しかし陰気な歌だなあ。もっと陽気な歌でぱあーっといこう、ぱあーっと」 
     「ホステスが客の相手もせずに、酔っ払ってどうするんだ」             

     “悪くなるのはもう止めて、あなたを捨てた訳じゃーないー”
     いつもこの箇所になると声が震えた。
     君枝は何物かに抗うかのように、マイクを強く握り、目を閉じながら歌う。
     店の騒めきも客のヤジも、もう君枝の耳には届かない。目蓋の中には弟がいるだけだった。
     丸々と太った幼い日の弟が、白い歯をむきだして笑っている。
     不思議に浮かんでくるのは、子供の頃の丸い顔だ。
     ねえちゃーん、と呼ぶ声も少し高めの体温も、気の弱そうな笑顔も、
     こんなに鮮明なのにお前はもういない。
     たった一人の弟も守ってあげられなかった、ねえちゃんを許してね。

     今夜も飲まなきゃやりきれないと、君枝は酔いの回った頭で思った。
     赤いスポットライトが、君枝を照らした。 痛んだ茶色い髪の毛が、炎のように染まった。
     

     君枝の住む村は、大阪と和歌山の県境にあった。
     山間に囲まれた集落は、山肌にへばりつき、七、八十軒ずつが一塊りとなり、
     それぞれに上の村、中の村、下の村と呼ばれている。村人の大半は老人だ。
     当然のごとく若者たちは都会に憧れ、村を離れた。
 
     高校を卒業した良介も、例外ではなかった。
     大阪の自動車会社で、セールスマンとして働きだしたのだ。
     それでも当初は、日曜日ごとに山峡の村に帰っていたが、やがて二ヵ月に一度になり、
     三ヵ月になり、一年に一度となった。
   
     そんなある日、良介がひょっこり家の戸口を開けた。
     「今日は商売だよ。中の村の吉井さんが車を買ってくれるんだ。
     それも、乗用車とトラックの二台だよ」 
     そして、ねえちゃん、いつまでこんな田舎に引っ込んでるつもりなのか、
     大阪に出ておいでよ。と、人懐っこい笑顔を向ける。  
     「お母ちゃんを置いて、そういうわけにもいかないでしょ」              
     しばらく見ない間に、良介はすっかり都会人になっている。
     会うたびに服装は良くなっていくと、君枝は弟を見た。        

     それから一ヵ月が過ぎた頃、良介の勤める会社から、入金されるはずの三百五十万円が、
     未入金のままだと電話が掛かった。
     中の村の吉井さんの車代金を持ったまま、いなくなったというのだ。
     そんなことの出来る弟ではないと君枝は声高にいったが、
     帰るたび派手になってくる良介の姿が浮かんだ。

     暗い台所の片隅で、君枝は受話器を持ったまま、棒立ちになった。手足が小刻みに
     震えている。
     受話器の黒い小さな穴から、もしもしの声が響いている。 
     「なんということを……」         
     大声をあげ母のトミ子は泣き崩れた。
     気の早い秋の虫が、夜の底で鳴いている。 
     君枝二十五歳、良介は二十二歳であった。 狭い村に噂が、面白おかしく流れた。
 

     締めきった部屋の空気がドロリと澱み、寝臭い息が行き場を失っている。
     十年なんてあっという間だと、鏡の中の顔を見ながら君枝は思う。
     自慢だった白くて張りのある肌は、化粧やけで渋茶色をしている。
     自堕落な生活が肌にも、顔付にも出ていた。
     ささくれだった肌を、両手の平で思いっきり擦ってみたが、一瞬頬の辺りがほの赤くなった
     だけで、すぐに不健康な色に戻った。

     「ああ、いやだ、いやだ」         
     窓辺の厚いカーテンを引き、眩しさに君枝は目を細める。
     真昼の光が白い矢となって、けば立った畳を射抜いた。
     窓を開けると、向かいの中華料理屋の油っこい匂いが流れこんだ。
     乳母車を押している若い母親や、買物篭を手にした主婦が窓の下を通る。       
     私が失ってしまったもの、もはや今の私には縁のないもの……
     寂しさと忌ま忌ましさで、君枝は乱暴にカーテンを引き寄せた。   
     部屋は元のように夕暮になった。    

     スナック環≠フ二階が、君枝の住まいだ。六畳一間に小さな台所と、簡易の風呂が
     ついている。
     手洗いは階下を使用する。 
     時計を見ると、十二時を回っていた。テレビを点け、インスタントコーヒーを入れる。 
     君枝は部屋にいるときは、いつもテレビを点けた。話し声がするとなぜかホッとするのだ。
     ボリュームを上げるのが、いつのまにか癖になっている。
   
     お昼のニュース番組らしい。男女のキャスターが画面に映っている。
     「次は暴力団関係です。××元締めの代わりに組員が殺されました。銃弾は彼の……」
     画面は変わり、パーマをかけた男の顔写真が大きく出た。             
     「良介!」                
     コーヒーカップが畳の上に、鈍い音を立て転がった。茶色い畳に黒い染みが広がった。 
     テレビの中の男は、気の弱そうな顔をして笑っている。
     縮れたパーマが、やけに不釣りあいだった。 

     良介馬鹿だよ、こんなに軽くなってしまって。本当に馬鹿だよ。
     なにも下っ端のお前が死ぬことはないじゃないか。        
     人間って生きててこそだよ。
     ねえちゃんだって人様に自慢できるような生き方はしちゃいないけどさ、
     それでも生きてるよ。無理に頑張らなくてもいいんだよ、ただ生きてさえすりゃ。
     同じ東京にいたんだねえ……       
     ねえちゃん、とうとう一人ぼっちになってしまったよ。 
     帰ろう。村へ帰ろう、ねえちゃんが連れて帰ったげる。

     小さな箱をビトンの鞄に詰め、君枝は大阪に向かった。
     コピーのビトンは図柄が少し滲んで見える。
     大阪市内から、一時間半ほど私鉄電車にのると、最寄りの駅に着いた。
     駅前にはロータリーが出来、バスの発着場になっていた。
     辺鄙な田舎の駅は洒落た駅前になり、見違えるようだ。
 
     君枝は十年ぶりにバスに乗った。
     バスの便はあの頃と違い、一時間に一本に増えている。
     山奥の村は、日曜には親子づれや恋人たちで賑わう、観光地になってしまったのだ。
     道路は舗装され快適なドライブウエイが、山間を塗っている。
 
     君枝は運転手から離れた後ろの窓際に座った。平日のことで乗客は疎らだ。
     しばらく走ると家並みは途切れ、山が近くなった。
     君枝は窓を開け、鞄の中から白い小さな箱を取り出した。
     「良介、山の匂いがするだろう。懐かしい匂いだろう、お腹いっぱい嗅ぐといいよ」
     窓から外を見せてやると、風のせいか箱の中でコトリと微かに音がした。

     下の村を越し、中の村を通り過ぎ山道を尚も進むと、眼下に大きな貯水場が望めた。
     ダムだ。
     八月の昼下がり、ダムの畔に人影はなく、放出される水だけが白い飛沫を上げている。 
     君枝はバスを下り、ダムサイトを歩いた。容赦のない真夏の太陽に、目が眩みそうだ。
     「驚いた?良介。私達の住んでいた上の村はダムの底に沈んでしまったの。
     七十軒あった家がすべて、この蒼い水の下に眠っているのよ。あの頃の姿のまんまで」

     緑色の湖面はぎらつく光線の中で、静かに横たわっている。
     静かな水面に蝉の声だけが響きわたる。
     それは、天空から地中からわき上ってくるのだった。
     蝉時雨は君枝の全身に降り注いだ。
     ダムの中ほどに小さな島が一つ、浮かんでいる。村の鎮守があった場所だ。
     村落があった証として、氏神様のほこらだけを残したのだ。

     良介、あれからいろいろあったのよ。お前の件があって、お母ちゃんめっきり弱ってね、
     二年後に亡くなってしまったの。淋しい葬式だった。
     それから直ぐだった、上の村がダムに沈むという話を聞いたのは。
     ねえちゃん、行くあてがなくってね、まず大阪に出たの。それから名古屋、
     そしてご覧の通りよ。
     きっと良介も何度かは、家に電話をしたんだろうね。
     家がダムの底になったことも知らないで。

     君枝は食い入るように小島の辺りを眺めた。
     鎮守の杜の傍に、君枝達の家があったのだ。
     島の下方に黒い影が映った。
     「あっ、屋根が見えた!」
     違うよねえちゃん、雲だよ、雲が流れているんだよ……声が聞こえた気がした。
     誰もいるはずがないのに、慌てて振り向いた。

     良介、お母ちゃんのいる家にお帰り……
     ねえちゃんと喧嘩して隠れた押入、背比べした居間の柱、犬のクロを埋めた裏庭、
     西瓜を丸ごと冷やした井戸……
     懐かしい場所にお帰り、良介……     
     君枝は白い箱から、はかなげな骨を一つ取り出した。
     そしてダムサイトから、蒼い湖面にむかって思いっきり遠くへ投げた。         
     白い小枝のようなものは、光りながらダムの底に沈んだ。              
     小さな波紋が広がって消えた。