川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
ホーム  エッセー  旅  たわごと  出版紹介 

 河内再発見

                河内の酒蔵  


若い頃に比べ酒量は減ったとはいえ、お酒大好き人間である。お酒は人生を二倍楽しくしてくれると、信じて疑わない。尤もこれで人生をふいにする人もあるにはあるが。
 お酒と会話は料理をひきたてる必須アイテムだ。
 刺身にはキンキンに冷えた冷酒、焼肉にはビール、美味しいチーズが手に入った時は、ガーリックをつけて焼いたフランスパンと赤ワイン。
夜景を眺めながらのホテルでは、格好をつけてマルガリータかブルーローズ。

 体調が思わしくないときは、焼酎のお湯割り。体調が悪ければ飲まなければ良いものを、そこはお酒のみのいじましさ、人様が飲んでいるのを見ると、ついついグラスを差し出してしまう。
「飲むと血の巡りがようなるねん」と、言い訳をしつつ。
やがて一杯が二杯になり二杯が三杯になる。

私が年齢を意識したのは、増えた顔の皺でもなく、引力の法則に従って律儀に垂れ落ちる肉体でもなかった。お酒が弱くなったなあ、あくる日に残るようになったなあと感じた時であった。何か大事なものが失われつつあることを実感し、軽い怯えを感じた。これを境に、若さと決別するのだろうという、寂しさと喪失感だった。
それはある日突然やってきたようでもあり、徐々に忍び寄ってきていたようでもあった。
酒どころといえば灘や伏見を思い浮かべるが、なかなかどうして、河内も酒どころである。醸造元は六軒もある。
というわけで今回は河内の酒蔵を訪ねた。

 英傑たちの愛飲酒 天野酒

 天野酒の歴史は古い。1432年に記された「看聞御記」の中に、その名が見られる。
平安時代中期以降、酒造りの中心は大寺院へと移った。
 当時醸造とは現代でいうバイオテクノロジーであり、資本・学問の中心であった大寺院では次々と改良・研究がなされ、室町時代には全盛期を迎えた。いわゆる僧坊酒である。
そんな中でも、とりわけ天野山金剛寺の天野酒は「天野比類無シ」「美酒言語二絶ス」などと称えられた。ちなみに金剛寺は女人高野とも言われ、南北朝時代には二十年も行宮が置かれ、天野行宮とも呼ばれた名刹だ。


 天野酒を愛飲した人物の顔ぶれがすごい。
楠木正成に始まり、織田信長・徳川家康・小堀遠州、そして豊臣秀吉。秀吉にいたっては良酒醸造に専念することを命じた朱印状を下付したほどである。
それらの歴史を頭に入れ、味わいながら冷えた天野酒を口にした。辛口の媚びない日本酒本来の味がした。金剛葛城の峰を連想さる味とでもいおうか。

酒半 利休梅

 生駒連山の麓、八月の交野の里には稲が青々と波打ち、のどかな光景が広がっていた。
そんな中に大門酒造・酒半の蔵がある。
 酒半とは酒屋の半左衛門の意だとか。文政九年(1826)創業である。「利休梅」は交野が原の沃地から収穫される良質な米と、裏山の谷からの清冽な湧き水を使った地酒である。
交野の地はその昔、京の都から公家公達が花見や狩に訪れた雅な地である。その地に根ざし風土をも吸収する地酒は、まさに地方の華であるとは六代目当主の弁だ。


 酒はぬるめの燗がいい、肴はあぶった烏賊でいい……と八代亜紀は歌っているが、私は燗なら熱燗、冷やならとことん冷えたお酒。何事によらず中途半端が嫌いなのだ。
蔵の敷地内の「無垢根亭」では、お酒にマッチした季節の料理がいただける。酸味のきいた爽やかさが持ち味のお酒である。

巡礼街道の酒蔵 富士正

 西国三十三ヵ所、第五番札所葛井寺門前に藤本酒造の杉玉が下がっている。蔵の前を南北に巡礼街道が伸びている。
葛井寺は悲劇の遣唐留学生「井真成」ゆかりの寺で、それにちなみ藤本酒造には「いのまなり」というお酒も売られている。
 藤本酒造の創業は大正二年だが、家系図は一七一五年にまで遡る。酒造業以前は木綿商で、白木綿を織り福助に納めていたという。河内は木綿の産地、まさに河内の歴史を垣間見る気がする。当主の酒造りに対する思いは熱く深い。「ちょっと待ってなはれや」と、
古酒が保管された、理科室のガラス容器を思わせる瓶の蓋をとり、利酒をさせて下さる。まさにバイオテクノロジー。至福の時である。     
 富士正・松花鶴・いのまなり、の利酒に、桃源郷を彷徨いながらの取材であった。
 吟醸酒にしては少し甘めの、まったりと奥深い喉越しのよいお酒である。

 今回の河内再発見は実に楽しかった。何しろ飲み比べながら原稿を書いたのだから

i