川上恵(沙羅けい)の芸術村
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河内再発見

河内ブランドの女・恋の通い路



わたくし生まれも育ちも河内です。
 一口に河内と申しましても、いささか広うございまして、北河内・中河内・南河内に分かれます。地域により文化や言語、気質に少しの違いはございますが、おしなべて陽気で世話好きでございます。ラテン系なのです。
 今年で閉園となります菊人形で知られる枚方市や、お染久松の舞台となった野崎村は四条畷市で、この辺り一帯が北河内。少し南下すると中河内、今回の舞台となる所です。東に生駒の山並みが連なり、季節や天候によって変化する山容を借景に暮らす贅沢。蔕文庫はこの辺りに位置します。
 plの花火で有名な富田林、楠正成でお馴染みの千早赤阪村などは大阪府の東南部に位置し、南河内と称します。
 ちなみにわたくし生まれは中河内、そして現在住いしておりますところは南河内でございます。人情厚く、住めばどこよりも都、生粋の河内ブランドの女でございます。
 以後よろしくお見知りおき下さいますよう、お願い致します。
 というわけで河内の女の話を二題。

〃業平道〃あるいは〃恋の通い路〃という、なんとも素敵な道がある。
 かの在原業平が愛しい女にあうためにいそいそと通った、山深く険しい道である。住居である天理の在原寺から竜田川、十三峠と生駒越えをし、通い路は河内の高安に通じている。
 そのころ業平は筒井筒の仲であった妻と疎遠になりかけていた。そんな折、枚岡明神詣での途中、高安の女と出会うのである。
 通い始めた当初は繕っていた女であったが、馴染んでくるにつれ、かいがいしく自身で業平の世話を焼くようになった。
「あ、あなたのご飯は私がよそってあげるわ、ハイ、どうぞ」
 周囲の目を気にせず、いそいそと自ら杓子を手に取る始末である。久し振りに恋しい男に逢えた女は天真爛漫に嬉しいのだ。なにより業平をくつろがせてあげたいのだ。手から手へと、直接的な愛情の表現である。
 ところが貴族社会では考えられない小さなルール違反に、業平は内心舌打ちをする。女心の真意を解せない男はこう非難するのだ。
『おいおい、気品のある女は、そういうはしたないことはしないもんだぜ。よせよみっともない、仕えの者がいるじゃないか』
 気品のある澄ました女がそんなに勿体無くも有りがたい存在なのかと、これを読むたび当時の社会や、男のつまらなさを感じてしまう。業平でさえそうなのだから、あとはいわずもがなである。
 美しく可憐な人形が大好きなのである。
 私は声高に高安の女の代弁をしてあげたい。
 たまに男が通ってくる間くらい、取り繕うくらい女には簡単なことである。それくらいの知恵も技量も持ち合わせているのだ、大抵の女は。だがあえてそうしなかったところに高安の女の健気さがある。恋に駆け引きの必要なことを、知らぬはずも無いのに。
 やがて情の深さに辟易した男の足は、高安から遠のいた。
  
  君こむといひし夜毎に過ぎぬれば
     たのまむものの恋ひつつぞふる
  
 飯を勺子ですくうのも、くだけた様子で打ち解けるのも、人間的でおおいに結構である。だが、この短歌は哀し過ぎる。女々しすぎる。女が女々しすぎてどうするのだ。私は思うのだ。高安の女は捨てられたあとが並の女なのだ。別れにこそ美学が必要なのに。
 本当は弱いが故の強がりが、高安の女にも欲しかったと、河内ブランドの私としては無い物ねだりをするのである。それが甲斐性というものでしょう、恋に涙はつき物ですから。

 次にこれもまた男にとっては重過ぎる女を詠んだ歌を一首。柿本人麻呂の歌というのが興味深い。
  河内女の手染めの糸を繰り返し
   片糸にあれど 絶えむと思うへや
  河内女の歌  万葉集 巻七 一三一六
( 河内の女の手染めの糸を、何度も繰り返して、片糸ではあるが絶えるわけがない)
河内木綿を織っている、片恋女の執念の歌らしい。健気なほどに河内の女は情が濃く、一途なのだ。そういう私も自分で自分の情の深さを持て余す時がある。河内のDNAだろうか。
 綿の花は芙蓉の花に似て愛らしい。
 その昔、河内平野を雲海のように、白い花がフワフワと漂うように揺れていたのだろう。
 河内地方に取り戻したい風景である。
 
  ※ 俵真知さんの「恋する伊勢物語」よ    一部抜粋