川上恵(沙羅けい)の芸術村
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河内再発見

河内弁と今東光と悪名と


           
「おんどれ、なにぬかしてケツカンネン。いてこましたろか!」
 直訳いたしますと、
「貴方、何をおっしゃっているのでございましょう。そんな事をおっしゃると、ブチますわよ」と、こうなるわけでです。
 けれども今や、このようなハードな正調河内弁は世代交代によって、なかなか聞く機会に恵まれません。河内弁と言ってもどこでもこのような荒い言葉で喋っているのではなく、中河内・南河内限定というところでしょうか。
 私が子供の頃はシャツにステテコ、頭に日本手拭の鉢巻を巻いたおっちゃん達が、喧嘩をしているわけでもないのに、声高にこのようなやり取りを交わしていました。
 
河内弁は今東光描くところの小説や、映画「悪名」で一躍有名になりました。いまや全国区です。河内出身の古い任侠精神の持ち主の浅吉と、腕も度胸も人一倍だがドライなモートルの貞がコンビを組み、悪徳やくざを叩きのめすというパターンですが、勝新太郎の浅吉親分、田宮二郎演じる清吉、貞吉、どちらも適役で本当に楽しめました。低めに兵児帯を巻いた浅吉親分の姿は、まさに河内の男そのものでした。モートルの貞、亡き後、弟の清吉が浅吉の子分になるわけですが、この田宮二郎が絶品なのです。まさに河内のおっちょこちょいの兄ちゃんそのものでした。

 昔はこんなおっちゃん達が村のあちこちにいたものです。彼らにはいまでいう「ちょい悪おとこ」あるいは「ちょいダメ男」の匂いがしました。私はこのチョイ悪の雰囲気に弱いのです。チョイ悪というのは、可愛げや色気につながると思うのです。でもこのチョイがなかなかに難しい。過ぎても足らなくてもいけません。
 悪名シリーズ十六作の中で、瞼に焼き付いているシーンがあります。
「わいが死んでも、わいのど根性は死なへんわい」と、因島の女親分にステッキのムチを受けながら、浅吉が叫ぶ海岸のシーン。浪花千栄子の女親分は堂々としていて、その語り口調といい最高でした。そして二作目の、モートルの貞が死ぬ場面。雨降る中を恋女房と相合傘で歩いているところをチンピラに刺され、死んでしまうのです。蛇の目の傘は赤だったか、紫色だったか……、真上からのカメラアングルは鮮烈でした。どちらも名作でした。ちなみに浪花千栄子さんは富田林市の出身だそうです。シルクハットの親分も味がありました。中村玉緒、水谷良江、藤原礼子、嵯峨美智子、中田康子……、会ったばかりの人の名前は忘れるくせに、昔の俳優さんの名前は不思議に覚えているものです。

 小学生の頃の私は先生から「きっと、この子は不良になる」と、お墨付きをもらうほどの映画少女でした。映画を見ると不良云々という時代だったのです。
「昭和座」という小屋がありました。畳敷きに花道もついた一応は体裁の整った芝居小屋でした。舞台のそで辺りからトイレの匂いが漂い、それにスルメヤ酢昆布、ラムネにみかん水と様々な匂いの混じる小屋でした。この匂いが、これから始まる映画への期待をいやがうえにも掻き立てるのです。
 昭和座は年に数回、旅役者の興行がある以外は映画館となります。映画は一週間毎に一日だけの上映で、三本立てという美味しさです。B級映画から上映され二本目はC級、そして最後にA級映画で締めくくられます。老若男女、開演の六時を待ちきれず、二つ折りにした座布団を脇に小屋に急ぎます。東映、大映、松竹、東宝、新東宝、日活、どれほどの本数を私は見たことでしょう。

 この体験からか、私はいまでも洋画より日本映画が好きです。でもそういうと、「へえ」というような目で見られると思うのは、私の僻みでしょうか。子供の頃みた勝新太郎は白塗りの、少しにやけた二枚目俳優でした。  
 今東光が住職をしていた「天台院」は、八尾の街中にある、こじんまりとした寺です。私が訪れたのは夕刻でしたが、ここに今東光を偲ぶものは何もなく、肩透かしをくったような一抹の寂しさがよぎりました。

 直木賞作家にして大僧正。そんな輝かしい経歴の持ち主なのに、八尾市には今東光氏の顕彰碑なるものはありません。八尾市のイメージを下げたという理由だそうですが、首を傾げたくなります。ふいに本堂前の三段ほどの階段に腰掛けた今東光が、あの人懐っこい顔で大口を開け笑っている錯覚に陥りました。
「ええねんええねん、そんなもんいらん。碑も銅像もあの世には持っていけんからな。背おてたら重とうてしゃあない。人間生きてるうちでっせ。せいぜい楽しみなはれや」
 そんな声が聞こえてきそうでした。
      ホームページ八尾物語 参照