川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
エッセー  旅  たわごと  出版紹介 
                               



                    怪僧と呼ばれた男



     八尾という地域には、北河内や南河内とは微妙に異なる、一種独特な空気が漂う。
     延々と住み着いてきた魑魅魍魎たちの残滓が、古びた神社の境内や大楠の天辺あたりに、
     生きもせず、かといって消滅もせず、いまなお密やかにざわざわと浮遊しているけはいが
     する。それは、したたかに逞しい土着の念となり、街を包み込んでいる。

     古代から中世の河内は、旧大和川・長瀬川・玉串川、そして幾本もの支流が、大蛇が銀鱗を
     光らせながら蛇行するがごとく、ちぬの海へと流れ込んでいた。
         
     河内という地名には三つの説がある。
     多くの川に囲まれた「かわのうち」というのが一般的であるが、大勢の鍛冶師が河内に
     すんでいたところから、鍛冶が転訛して「かわち」になったという説。
     そして大蛇(おろち)など霊感のあるものにつけられる「ち」、すなわち、
     「かわのち」の説である。
     氾濫を繰り返す川は忌むべき蛇だったのである。

     現に私が子供のころ老人達は、クチナやムジナ(狸)、狐などの霊力を信じてていて、
     理由のつかない奇怪なことは、すべて魑魅魍魎の仕業だと思っていた。
     夜に竹の笛などを吹くと、大蛇が出てくると叱られたものだ。

     そんな土地柄に怪僧と呼ばれる男が出現するのは、しごく当然のことである。
     百鬼夜行する悪霊を封じ込めるのは、それを上回る霊力を有した者でなければならない。

     河内地方の東の空の下には修験の山として知られる、金剛葛城・生駒の山並みが南北に長く
     連なっている。それらは役の行者から脈々と続く山岳修行の霊山、聖地である。

     宇野千代さんによると、今東光氏の若いころは、大きないたずらっぽい目をした色白の、
     絶世の美少年であったそうだ。
     人を人とも思わぬ風が、良家に育った不良少年をいう印象であったのは、
     彼のために不名誉ではなかったと、著書に書いている。
     そういえば東光氏は長い間、八尾市にある天台院の住職だった。
     色白のぼってりとした、その風貌は、私には弓削道鏡に重なって見える。
     風采と声の良い僧侶はあり難いと、かの清少納言も言っている。反対に悪いのは罪だとも。
     その上、サンスクリット語をマスターし、葛城山での修行で呪術を会得したとなれば、
     鬼に金棒だ。

     道鏡は八尾市弓削で生まれた。
     一説には天智天皇の孫だとも言われるが、真偽の程は分らない。
     道鏡と孝謙上皇(後の称徳天皇)の出会いは、近江保良(ほら)の宮に始まる。
     上皇は病に伏せていた。物の怪に取りつかれ魂の抜けたような、頼りなげな風情だった。

     「この道鏡にお任せを。すべてお任せなされ」
     包容力のあるなんとも優しげな声に、上皇はうっすらと目を開けた。
     その目に道鏡は大きく頷き、上皇の目を離さなかった。
     「苦しくて眠れないのです。眠ろうとすると得体の知れないものが私の首を絞めるのです。
     万力のような重さで私に覆い被さるのです」

     「上皇さまが心地よく眠られますまで、何日でもお側にはべりまする。
     下がれとおっしゃるまで何日でも。このような悪さをする魔物を、調伏し追い払いましょう」
     上皇は微かに笑みを浮かべた。
     それからの日々、昼夜をとわず枕元に坐し、医薬の知識や読経、呪法を授けた。
     力強い矢のような道鏡の気は、上皇の心身にあますところなく降り注ぎ、潤してゆく。
     上皇は母の体内にいるような安らぎを覚えた。

     近江にいるはずなのに、道鏡の魂は葛城の峰々にいた。
     漆黒の闇を疾走し、獣の気配を身近に感じながら自然と一体となって体得した霊力、
     呪術……
     峻険な峰々を駆け巡った若き日の生命力が沸々と湧き上がる。
     道鏡は一心に祈り続けた。
     日に日に上皇の頬には血の色がさし、目には練り絹のような光が宿った。
     道鏡62歳、上皇は45歳であった。

     前世からの因縁なのか、中年の恋は向こう見ずで一途に激しい。そして欲深い。
     やがて孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、道鏡の出身地である弓削に「由義宮」を置くの
     である。
     平城京に対しての西の京を。
     いじらしいまでの愛のなせる業。時に道鏡は太政大臣禅師に任じられていた。

     だがそれらは称徳天皇の死によって幕が下ろされた。
     道鏡は下野(しもつけ)薬師寺別当を命じられ下向し、かの地で没する。77歳であった。

     なんと、河内の八尾には宮があったのだ!
     何気ない所に、歴史の重要な舞台がさりげなく隠れている豊かさ。私が河内を面白いと
     思うのは、そういうところだ。

     由義宮跡に建てられた由義神社は、蔕文庫舎のすぐ傍にある。
     当時の壮大さを偲ぶよすがはないが、小ぶりな本殿を覆うように樟の大木が木蔭闇を
     つくっているのは、まことに河内らしい風景である。
     「河内はバチカンのような所」とは、東光氏の弁である。