川上恵(沙羅けい)の芸術村
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河内再発見                     

悲劇の遣唐留学生  井真成 (いのまなり)



 なんと美しい風景だろう。
 大和川と石川の合流点に立つたび、私はいつも不思議な感傷に捕らわれる。大和川がゆったりと西に流れる。
数羽のユリカモメが川面に漂っている。東の方向には駱駝の背のような二上山が、緩やかに裳裾を引きながら薄紫に霞んで見える。
 遥かな昔、古人(いにしえびと)達が眺めたであろう光景を、いま私が眺めていることに対する、懐かしいような心もとないような複雑な感覚。永遠に対する畏怖、畏敬である。
 川特有の匂いが、肺臓深く流れ込むのも心地いい。
 山の向こうは大和である。
 古代、河内の地は政治・経済・文化を都へ運ぶ要路であった。川の両岸にはきらびやかな塔頭が林立し、遣隋使や遣唐使節団の往来も盛んであったという。
 だがいまや塔頭は礎石を残すみである。

 私の住む藤井寺市は、最近ちょっとした遣唐使ブームである。

     ……姓は井あざなは真成 生国は日本と号す……

 昨秋(2004)中国の西安で、井真成の墓誌が発見された。だがその名前は、いまだ歴史上に登場したことのない未知の人物であった。初めての日本人の墓誌、それはまた日本と書かれた、最も古い資料でもあった。
 早速、学者達の間で真成なる人物の謎解きが始まった。
 東野治之・奈良大教授は、葛井寺の創建に係わった渡来系氏族の葛井氏で、「ふじいのまなり」という名前だったのではないかとの説を打ち立てた。遣唐留学生には、唐の文化や言語に素養のある、渡来系氏族の子孫が選ばれる事が多かったという。(井上説もある)

 717年、井真成は阿倍仲麻呂や吉備真備達と共に唐に渡った。19歳であった。
 この三人を考えるとき、運命の分かれ道はどこにあるのかと考えさせられる。
 無事帰国した吉備真備は大臣にまで登りつめ、阿倍仲麻呂は唐で客死する。そして井真成は帰国を目前に、36歳という若さでかの地に果てるのである。
 墓誌には、肉体は異国の土に埋もれたが、霊魂は故郷へ帰ることを願う、と彫られている。礼儀正しく勤勉で、朝服姿で官廷にたてば、誰も並び比べる者がなかったとも。
 墓誌が発見されなかったら、永久にその存在を知られなかった一人の青年。
 いかに大志を抱いて長安に向ったことか、だが、遣唐使節団として記録に残るのは、従五位以上の官位ある者のみである。
 己の名を記されなかった、どれほど多くの井真成が中国の地に眠っていることか、海の底に眠っていることか。それを思うと心が痛む。彼らの犠牲の上に、日本は国という体をなしてゆくのだ。
 そんな墓誌が今年の暮れ里帰りをする。
「墓誌を故郷へ」との市民の願いが功を奏したのだ。

 12月、わが街は熱くなる。
 藤井寺市へ足を運んでいただきたいと思う。
 40センチ四方の小さな墓誌に、真摯に生きた一人の青年を想っていただきたい。
 魂というものがあるのなら、1200年以上の時空を経て、悲劇の遣唐留学生は、ようやく安らかな眠りにつくに違いない。二上山の山容は当時と少しも変わらず優美だ。