川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                  北摂レイン



    あれっ、雨が降ってるの?」
    夫の背広から、ふっと雨の匂いが漂った気がした。
    よく注意をしなければ分からないほどの微かな匂い。
    「いいや、どうして?」
    「じゃあ気のせいね。貴方の背広から雨の匂いがしたような気がしたから」
    「……」
    なんとなく気になる雨の匂いだった。

    衿子と夫の智博は結婚して八年になる。子供はまだいない。
    「あまり仲が良過ぎからよ」と、友人たちからは冷やかされているが、
    仕事を持っているせいか、あまり寂しさは感じない。
    何より智博は物分かりの良い、申し分のない夫だった。

    心にひっかかった雨の日から、二週間ほどたった夜の事だった。
    夫の肩先が濡れていた。
    紺色のスーツは雨の当たった部分だけ、隠しようもなく黒く沈んだ色をしている。
    体温を通した雨の匂いは、遠い日に嗅いだ土塀の匂いと、どこか似ていた。
    そしてわずかに獣の匂い。
    「仕事で京都まで行ったんだけれど、ひどい雨でまいった。まるで春の嵐。
    この辺りでは降らなかったの? 地面が濡れていないようだったけど」
    それには答えず、衿子は夫の背広をハンガーに掛け、タオルで雨の染みをぬぐった。



    女のマンションは竹やぶの多い、なだらかな丘陵地にあった。
    けっして妻が嫌いなわけではない、だが女に惹かれてしまった。出会ってしまった。
    わずかな風にも竹はしなり、手の切れそうに細い葉は、薄い金属を震わすように
    昼も夜も微かな音を立てている。
 
    その日も竹やぶは煙っていた。
    「しかし君は雨女だね。このマンションに来ると必ず雨が降る」
    「私のせいじゃないの。この辺りはよく雨がふるのよ。北摂レインって呼ばれるくらい」
    「ふーん、北摂レインか……」
    大阪と京都の境目にあるこの地域は、摂津と呼ばれている。
    そんな摂津の北部を雨は、しゃらしゃらと竹の葉の間を降るのだった。
    そして女は、雨と竹やぶの中でだけ、ひっそりと暮らすのであった。
 

    今夜こそ話そうと衿子は思った。素知らぬ振りをするのも、六ヶ月が限界だった。
    決して女々しい女にだけは、なりたくなかった。
    感情的にならず、凛々しく夫と向きあう自信はあった。
    私は誇り高い女。間違っても涙で夫をひきとめたくはない。
    私以外にも愛する女がいるなんて許せない。 私のプライドが許さない。
    どう切り出そうかと、衿子は思案をした。
 
    『ねえ、これからは天気がよくても傘を持って出てよね。
    それがパートナーに対する礼儀というものよ。ルールは守ってほしいものだわね。
    自分じゃ気づいていないだろうけど、雨に濡れて帰ってくる夜の貴方は、どこか不自然よ』
    それとも、のっけから別れ話を持ち出そうか。
    『私はいいのよ、ぜんぜん平気。他の女性に心の移った貴方になんて未練はないわ。
    幸い子供もいないし、やりがいのある仕事も持っている。私の提示するプログラムは
    顧客から評判が良いいの、一人でも十分に生きていけるわ。別れましょうよ』
 
    だが一方で、今夜も夫の背広に雨の匂いが纏いついているのだろうかと、
    チクリと胸が痛む。
    衿子が大きくかぶりを振って、その思いを遠ざけた時、玄関のチャイムが二度鳴った。
    夫の癖だ。
    どうして二度なの?と、結婚当初に聞いたことがある。
    一度目はただ今、二度目は元気だったかの合図だと、照れながら答えた。

    衿子は静かにドアを開けた。
    畏れていた隠微な雨の匂いが、一筋流れ込んだ。
    衿子は一瞬眉根をよせたが、落ち着くのよと自分に言い聞かせ、そっと深呼吸をした。
    ダイニングのソファーに座って冷静に話すつもりだった。その自信もあった。
    だが雨の匂いを嗅いだ途端、言葉は堰を切ったように口からほとぼり出た。
    玄関につっ立ったままで。
    『えっ、どうしたの? 衿子どうしたの? うそっ……冷静に話すはずじゃなかったの』
    
    戸惑っている衿子を置いてきぼりにして、言葉は一人歩きを始める。
    勢いづいた言葉は、衿子にも、もうとめられない。
    「ねえ、お願いだから、もう雨の匂いを身につけて帰るのは止めて!。
    雨の匂いにむせて窒息しそうなの、苦しいの。限界なの。
    どんな女性なの? 若い人なの? 綺麗な人なの? 
    私、どこを直せばいいの、ねえ教えて……」

    私が哀願をしている……
    惨めな女になっている……
    女々しくて、涙を流して、愛してるのよって何度も言って、信じられない……
    衿子の知らない衿子が、夫にすがりついていた。