川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
ホーム  エッセー  旅  たわごと  出版紹介 




                   母の指


 

     母の人差し指と親指は、いつも真っ赤に染まっていた。
     洗っても洗っても、右手の赤色は消えない。体にふさわしく、ぽってりとふくらんだ手だ。
     肉厚の掌(たなごころ)に太くて短い指は、働き者の手だと知ったのは、
     大人になってからだ。

     原因は何だったのか、いまだに聞けずにいるが、両親はわたしが小学校6年のとき、
     離婚をした。
     母はわたしと弟を引き取り、女手一つでわたしたちを育てた。
     昼は内職、夜は茶華道の教授と、休む暇のない毎日だ。
     だが、根が楽天家なのだろう、心身ともに健康な母親であった。
     貧しいが、明るい母子家庭だった。

     内職は、小さな玩具を作ることであった。
     仕事先から大きな麻袋が届くと、わたしは待ちきれず紐をとき、中をのぞく。
     カンナくずのような木の香りが、鼻の奥をくすぐり、居間に広がる。
     袋には、小さな木型の汽車やバス・時計・ピアノ・家具などが、型抜きをされたままの
     状態で、ぎっしりと詰まっていた。

     「今日のグリコのおまけは、なあに?」
     「なんだろうね。仕上がってからのお楽しみ」
     太い指先は、小指ほどの木型の上に、鍵盤や文字盤、窓枠などを糊ではりつけていく。
     一瞬のうちに、のっぺらぼうの木片が、かわいい玩具に変身する。
     グリコの景品の出来上がりだ。

     母の指先が赤いのは、そのせいだった。
     木に塗った塗料と糊で、手が染まるのだ。
     二つしあげて1円の手仕事は、数をこなさなければならない。
     昼間の大半を、白いかっぽうぎ姿の母は、丸いちゃぶ台の前で過ごした。
     仕上がった玩具は、小さな山を作っている。

     「あれっ、もうこんな時間、たいへん、たいへん」
     柱時計が5つなると、母はあわてて仕事着を脱ぎ、先生に早変わりする。
     そして、神経質なほど念入りに手を洗う。
     「お母さん、なかなかとれへんね、その色」
     「よう目立つか? ちょっとは薄うなったんと違う?」
     目の前で両手をひらひらさせた。
     「……軽石でこすったら、どう?」

     そんな指先で、年頃の娘たちに茶道を教えている母を見るのは、子供心にもつらい。
     襖のすきまから覗き見をしながら、あの指、どうにかならないかと、気をもんだ。
     茶筅を回すとき、ふくさを扱うとき、赤い指はどうにも隠しようがなく、母の意に反して、
     ちらちらと見え隠れするのだった。

     そして数年がたった。
     わたしの通っていた高校では、月に何度か茶道の時間があった。
     初めての授業の日、わたしはひどく驚き、打ちのめされた。

     茶道の先生は、あまりにも母とは違いすぎたのだ。
     真夏だというのに、薄物の着物を涼しげにまとい、髪はひっつめに結っている。
     指は白く細長い。立ち居ふるまいも上品だ。
     「茶室に髪の毛が1本でも落ちていたら、亭主としては失格です。茶の心とは、
     それほどに厳しいものです」
     “茶の心とは”というのが、口癖だった。

     同じ茶人でありながら、わたしは母がなんだかかわいそうになった。
     母には“茶の心”などという余裕はないのだ。
     母にそんな高尚な精神はあるのだろうかと、心配になった。
     「茶道でいちばん大切なことは何?」
     と、質問してみたいと思ったが止めた。口下手は母には一言で言い表せない気がしたのだ。
     もし“生活のため”などと言われたら、どんなに寂しいだろう。
     口ごもる母を見たくはなかった。

     せめて明日からは、近眼の母に代わって、茶室に使っている4畳半と脇の3畳の部屋は、
     わたしが念入りに掃除をしよう。髪の毛の1本も落とさないように、注意をはらおう。
     弟と大声で喧嘩をしないでおこう。お稽古の間は、静かな空間をつくるように心がけよう。
     それだけでも少しは“お茶の心”に、近づくかもしれないと思った。


     あれから50年近くが過ぎ、母は米寿を迎えた。
     残念ながら病には勝てず、数年前に茶華道の看板をおろしたが、釜も棚もそのままにして
     ある。
     わたしにとって、釜は母の勲章……。

     「釜の方に足を向けて寝られへんね。わたしと弟を育てた釜やもの。
     それに、あのグリコのおまけ」
     「ほんまに、ありがたいこと……まだ昨日のことのようやのに」
     母は自分の手をいとおしそうに撫でた。肉厚だった掌は、すっかり嵩(かさ)が低くなって
     いた。
  
     「お母さんにとって、お茶の心って何?」
     今なら安心して聞ける。
     母はなんと答えるだろうか。