川上恵(沙羅けい)の芸術村
 
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幻蛍


   
     羊雲が空に浮かんでいる午後、
     「蛍を見に行かないか」と、岳彦から電話がかかった。
     「十月なのに、こんな季節に蛍がいるわけないじゃないの。哀れ蚊じゃあるまいし」
     美咲が本気にしないでいると、
     「それがいるんだな」
     秘密の話でもするかのように、岳彦は得意げに言った。

     車は九十九折れの山肌を縫うように走っている。眼下は深い谷だ。
     カーナビの画面は壊れたのかと思うほど、山の等高線ばかりを映し出す。
     高い杉木立に覆われた山道は、まだ四時だというのに、もはや夕暮れの様相を漂わせて
     いる。
     紅葉にはまだ少し早いのか、他に車の影は見当たらない。
     細めに開けた窓からは、鬱蒼とした木々の匂いが流れ込む。
     どれくらい走っただろうか、山はいよいよ険しく深くなった。
     木立に遮られた狭い空は紫色がかり、ほんのりと白い眉月が、連山の峰に引っ掛かって
     いる。
    
     さきほどから美咲は不思議な感覚に囚われていた。
     心のどこかに共鳴する景色に、肌になじんだ優しい空気。
     岳彦がハンドルを切るたび、美咲の脳裏には煙ったような映像が浮かぶのだった。
     『もうすぐ行くと、駱駝の背中のような山が見えてくる……』
     「親父は釣りが趣味で、それも鮎や岩魚など渓流釣りが専門。それがこうじて、
     山奥の清流沿いに別荘と言うか、釣り小屋を置いてある。その清流に季節はずれの蛍が
     飛ぶんだ。
     知っているのは俺たち家族だけ」

     「……」
     岳彦の言葉が上の空だった。
     『その先に大人、五、六人で抱えられるほどの巨大な杉の木があった……
     すぐ傍を小川が流れていた』
     以前、どこかで見たことのある景色のような気がする。テレビでだろうか、
     それとも夢の中でだろうか。 
  
     だが、車が急なカーブを曲がるたび、予測した灰色の景色は、
     色彩を帯びた現実のものになるのだった。懐かしいような気味の悪いような、
     細胞レベルでの記憶、奇妙な感覚。
     その感覚は山深くなるにつれて、いよいよ強くなるようだった。
     見たこともない別荘の場所を知っているような気がする。

     「ねえ、以前にこの辺りの写真、見せてもらったことがあるかしら?」
     「いいや、どうして」
     清明な水の匂い、むせるような樹木の緑、小鳥のさえずり……、そして密やかな集落。
     いつだったのか……いつだったのか、
     焦点が一つ所に集まらないもどかしさに、美咲は大きく頭をふった。。
     樹林の匂いがいっそう濃くなり、それに黄昏の匂いが混じった。
     増幅する奇妙な感覚に不安さえ覚える。

     山峡にたった一軒のログハウスが木立の間から見えたのと、
     「ああ、やっぱり」と、美咲が呟いたのは同時だった。
     岳彦は怪訝な顔で美咲を見ながら、ここは平家落人の里なんだと付け加えた。
     深山は一気に夕暮れから夜になった。
     ストンと落ちるような夜の訪れだった。
 
     丸太で組まれた別荘は、三方がベランダになっている。
     室内の明かりが薄ぼんやりと、ベランダにもれている。
     張り出したベランダの真下を清流が流れていた。
     水辺に覆い茂っているのは薄だろうか。
     厚手のカーデーガンを肩に、美咲はベランダで、せせらぎの音を聞いていた。
     「あっ!」
     夜の底で小さな光が一つ灯ったり、消えたりした。青みを帯びた黄色い光。

     「蛍、蛍よ!。ほんとに蛍がいるのね。どうして今ごろ蛍がいるの?」
     小さな光は闇の中で止まったり、ゆらゆら泳いだり、光跡を引きながら舞い飛んだ。
     やがて光は三つになり五つになり、五十になり、百になり……、
     もくもくと闇の水底から湧きあがってきた。
     雪が降るように、桜の花びらが散るように、蛍は乱舞するのだった。
     この世のものとは思えない光景だった。
 
     何度もここに来ているけれど、こんなに飛んでいるのを見たのは初めてだと、
     岳彦も驚いた。
     蛍の群れに、さわさわと薄の穂が揺れる音がする。薄が燃えそうなほどの光の塊。
     あまりに美しすぎて、怖くなるほどだった。
     『蛍はこの世とあの世を行き来する生き物って、ほんとうかしら……』
     ほんの少し風がでて、ポツリと冷たいものが顔にかかった。雨だった。
     風は吐息のように生暖かい。

     「この辺りはよく降るんだ。それも生半可な雨じゃない。さあ、中に入ろう」
     立ち上がりざま後ろを振り向くと、一瞬のことなのに、もう蛍は一匹もいなかった。
     光の渦は跡形もなく消え、闇と静寂だけがとろりと横たわっていた。 
     岳彦の言うように雨は夜半には本降りとなった。

     ヒタッ、ヒタッ、ヒタッ、ヒタッ……
     建物の周りを音がゆっくりと回っている。
     まるで濡れた藁草履をはいた人間が歩いているような音。
     「ねえ、なにか音がしない?。人が歩き回っているような足音。気味が悪いわ」
     「眠れないのかい。美咲はあんがい怖がりなんだな。気のせいだよ、
     こんな山奥に人がいるわけがない」
     「でも、聞こえる。まちがいなく足音よ」
     「空耳だよ」

     ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ……
     足音はだんだん早くなり、ぐるぐると建物の周りを回るのだった。
     雨はいよいよ強くなり、小さな天窓は飛沫で真っ白になった。
     時おり、ギャーという恐ろしげな烏の声が響きわたる。
     完全にログハウスは雨の中に孤立してしまった。
     雷鳴がとどろいている。

     ヒタヒタヒタヒタ、ヒタヒタヒタヒタ……
     濡れた足音は何人もの足音に増えていく。
     そして三度目の雷鳴で電気は消えた。
     山奥の一軒家は窒息しそうなほどの漆黒の闇に包まれた。
     雨はいよいよ激しく丸太造りの家を吹き荒れた。
     恐ろしさのあまり、美咲は口もきけないでいる。

     ( ひめー……、ひめー……)
     雨の間から声が漏れてくる。
     声は鮮明になったり、くぐもったりしながら、足音と共に建物の周りを駆け巡る。
     隙間風が入るのだろうか、蝋燭の炎がすーっと消えそうになったり、明るくなったりを
     繰り返す。
     炎が揺れるたび、蒼白な美咲の顔は、いよいよ蒼白になるのだった。

     「ねえ、姫ー、姫ーって声が聞こえない?
     確かに人の声よねえ。怖いわ。」
     「風の具合だろうか、だが確かに人の声のようにも聞こえる」
     ( 姫ー、お忘れか。姫ー、私をお忘れかー)
     「……あの声は……」
     美咲は遠くを見つめるような、何かを必死に思い出そうとするような、不思議や表情を
     した。
     洞窟のような目は、やがて宙の一点を凝視した。
     緩やかに、そして急速によみがえる記憶。
     焦点が確かな映像を結んだ。

     「……あの声は、と・も・ま・さ、様……」
     蒼白だった顔に赤みが差し、口元がゆるみ懐かしげな表情に変わった。
     「お懐かしい平智雅さま、智雅さまはどこ?」
     美咲はキョロキョロと辺りを見回した。
     「おい、美咲どうした? 何をわけの分からない事を言ってるんだ。美咲しっかりしろ」
     岳彦は彼女の体を前後に揺すった。

     『智雅さまが大勢のお供を従えて、私に逢いに……約束どおり私に逢いに』
     美咲は首をグラグラさせながらも、智雅さま、智雅さまと繰り返すばかりだった。
     外の声はいよいよ鮮明になってくる。
     ( 姫、早く外に。智雅はここでずっと姫を待っていた。千年近くもの間、ずっと姫を
     待ちつづけた。
     いつの日かきっと、という約束をひと時も忘れなんだ。さあ、早く外に出てこられよ)
     「……はい……」
     声にいざなわれるように、ふらふらと美咲は素直に立ち上がった。

     天窓を長い尾を引いた白い光が走った。稲妻だろうか。
     「駄目だ、外へ出るな!」
     岳彦は美咲を強く抱きしめた。決して美咲を外へ出してはならない。
     何かとてつもないことが起きようとしている。いや起きている。
     ここが平家落人の里であることを、今はっきりと岳彦は知った。
     だが、どこにそんな力があるのか、がんじがらめの岳彦の手を美咲はいとも簡単に振り
     ほどき、入り口の扉を開けようとした。

     雨の中を人魂は、ふわりふわりと家の周りを何度も回り続ける。
     突然、空が真っ二つに割れるような雷鳴がとどろき、火の玉が降った。
     入り口脇のひときわ高い杉の木に青紫の光が走った。
     それっきり二人は気を失ってしまった。
     稲妻は雨の中を走り、丸太造りの家を飲み込んだ。
     二人を閉じ込めたまま、またたくまに家は炎上してしまった。
     白い人魂は一瞬宙で静止し、燃え盛る建物の中にスーッと消え入るように入っていった。
     姫ーという声が、聞こえたような気がした。 長い尾を引いた人魂だった。

     川面から朝もやが立ちのぼっている。
     朝の陽がせせらぎの水面に縞模様を描きながら揺れていた。
     小鳥がさえずっている。
     透明な朝だ。
     せせらぎの、焼け残った薄の根元がかすかに揺れた。
    
     やがて一つの人影が頭をもたげた。続いてもう一つの人影もゆっくりと動いた。
     「どうしてここに?」
     「助かったんだ俺たち」
     二人が覚えているのは落雷があったことだけであった。
     思い出そうとしても、それ以外のことは思い出せなかった。
     がらんとした殺風景な風景がひろがていた。やけに空が大きかった。
     一軒家の別荘は無残に焼け落ち、薄紫の細い煙がたなびいていた。
     そして辺りには数え切れないほどの蛍の骸が散っていた。

     それ以来、夏がきても秋になっても、山深い里に蛍は飛ぶことはなかった。