川上恵(沙羅けい)の芸術村
 
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河内再発見

源氏とワイン

 二上山の麓、近つ飛鳥と呼ばれる辺りは、源氏と大阪(河内)ワイン発祥の地である。
大和の遠つ飛鳥に対し、難波高津宮に近いという意味から、近つ飛鳥と呼ばれている。
 近くには竹之内街道が大和へと続く。
 近鉄南大阪線の駒ヶ谷駅(羽曳野市)か、上ノ太子(太子町)が最寄駅となる。

 寒い季節から初夏にかけて、小高い山肌の斜面は、ビニールハウスで一面銀色に光る。
あたかも静かな湖面のようで、珍しくも美しい光景だ。ハウスには煙突が立っていて、中ではストーブを焚いている。やがて実が色づきハウスが取り除かれると、辺りには甘い香りが漂い、葡萄色に空気までが染まる。

 この地での葡萄栽培の歴史は古い。四百年前には農家庭先の日陰樹として栽培されていたという。シルクロードのオアシス都市、トルファンで見かける光景だ。尤もテレビで見ただけの光景だが。
 水はけの良い土質、温暖少雨に加え多照という恵まれた自然条件、昭和の初期には山梨県を抜いて全国一の生産量を誇っていたというから驚きである。ところが昭和九年、室戸台風で葡萄棚が被害を受け、これが機になりワイン作りが始まった。塞翁が馬である。
 こくのある大阪のワインの誕生である。
 720mlのワイン一本に、一キロの葡萄が使われているという。
こんな風景の中に源氏三代の墓は眠るのだ。

 南河内が源氏発祥の地だと知る人は意外に少ない。
源氏は五十六代・清和天皇の流れを汲む。清和天皇・王・源満仲と続き、(八幡太郎義家)の三代が河内源氏のルーツとなる。一〇二〇年、頼信は河内守となって河内国古市郡壷井の里(現・壷井、)に本拠地を構え、河内源氏を開く基を創る。
そして孫の義家から四代後に鎌倉幕府を開いた源頼朝が現れた。義家を中心とする系譜を源氏の嫡流とするならば、羽曳野市の壷井通法寺の地は源氏発祥の地、源氏の故郷である。

 それぞれの墓は少しの距離を置きながらも、芳醇な葡萄の香りの中にひっそりと佇む。
 父、頼信の墓は葡萄畑の真中に、子、頼義の墓碑は、羽曳野市が太子町と隣接するあたりにある通法寺跡の境内に立つ。広い境内は雑草が生い茂り、当時を偲ぶよすがはどこにも見当たらない。空に抜けるようながらんとした広さが、寂しさを助長する。

 そして孫の義家の墓は、二十基ほどの縁の墓標に守られるように小高い竹薮の中にある。どの墓標も苔むし、柱頭のない墓石や欠けた墓石がうら悲しさを一層つのらせる。刻まれた戒名も風化し定かでない。だが紛れもなく八幡太郎義家は南河内に眠るのである。千年以上経った今も、通法寺住職や忠臣たちと運命を共にする情景に、瞼の奥が少し熱くなる。

 ちなみに八幡太郎の名前の由来は、七歳の時、岩清水八幡宮にて元服をしたことによる。
 甲冑をまとった武士像を奉ってあるのが、いかにも武将の墓らしい。
 竹薮の中は薄暗く、それでも一条の光の帯が、義家の墓碑の下方に弱々しい光りを投げかけていた。兵どもが夢の跡である。

 それにしても源氏とワインという取り合わせは、なかなかに洒落ている。歴史上に名を馳せた武将の墓と、葡萄畑が共存しているのだから面白い。おおらかな風土は、いかにも河内らしい。

 源氏三代の墓参が済んだら次はワインである。歩くこと小一時間。のどかな石川の流れや河内の風景を楽しみながら、心ははやワインに向かっている。

 駒ヶ谷駅から歩いて八分ほどの所に、河内ワイン館がある。ワイン館では、ワインの歴史を学び、テイスティングが出来るのが嬉しい。赤・白・ロゼ、どれを楽しもうか。
 源氏の旗色に敬意を表して白ワインをと、思いつつも私は総ての色を試してみる。
「一気に口に含み、口の中で転がして……」
 係りの方に教わるが、せっかちな私の喉は待ちきれずに直ぐに飲み込むのだった。

 ふと遠い昔を思い出した。
 ワインなど珍しい時代に、夕食には必ず赤ワインを楽しんでいた伯父のことを。

 着物を着、肘置きに片手を預け、朱塗りの大きな丸い食卓で飲む赤い液体は、少々、奇異な感じがしないでもなかったが。
 それにしても洒落た伯父だった。

 

  河内ワイン館 羽曳野市駒ヶ谷1027

  tel 0729・56・0181

    河内源氏のふるさとを歩く 参照