川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                     福神駅

   

    ストレスに押し潰されそうになると、私は電車に乗る。
    どこへ行くという当てもなく、乗ることだけが目的だ。
    ガタゴトという振動に身をゆだね、車窓を流れる風景をぼんやりと眺める。
    郊外を走る各駅停車に、乗客はまばらだ。
    目的もなしに電車に乗っている私って、きっと変なんだろうな……。
     
    終点の吉野駅でコーヒーを一杯だけのみ、私はまた帰りの電車に乗った。

    大和上市から、10名ほどの学校帰りの小学生が乗ってきた。
    その中の一人の少年と目が合った。
    前歯が2本抜けている。顔つきも表情も幼い頃の息子とそっくりだ。
    みんなは前の車両に行くのに、なぜか少年は私の前の席に座った。
    手に緑色の虫かごを持っている。
    私はその虫かごに目をやり、少し微笑んだ。
    少年も私を見た。そして笑おうか笑うまいかという、中途半端な笑顔を見せた。
    小学校の2、3年生ぐらいだろうか。
    
    少年は触角の長い昆虫をソロリとカゴから取り出して、それとなく私に見せようとする。
    「カミキリムシやねえ」私が言うと、
    「おばちゃんカミキリ知ってるん。僕が取ってん」と嬉しそうだ。
    「どこで取ったの」
    「家のそばの草むらにいてるねん」
    カミキリもカナブンもチョウチョもいると話す少年に、虫博士やねえと誉めた。
    「虫博士? 僕が?」、前歯の抜けた口が大きく笑った。

    「おばちゃん、どこまで乗るん」と聞くので、F駅までと答えると、明日もこの電車に
    乗るのかと聞いてくる。
    「ううん、今日だけ」
    「なんで今日だけ? 明日も乗ればいいのに」

    こんな純真な子供に、おばちゃんはストレスがたまったら電車に乗るのとは言えず、
    今日は吉野に用事があったのと答えた。
    「ふーん」
    
    降りる駅が近づいた頃、今日も友達とカミキリムシを捕りにいくねんと、少年は座席を
    立った。
    プラットホームを見ると、福神駅だった。
    少年はなんども振り返り手を振った。私も振った。
    友達らしい少年も一緒に手を振っている。

    いっぱいカミキリムシが捕れるといいね、と窓から私は大きな声で言った。

   
    でも、どうして少年は友達から離れ、私の前の席に座ったのか、座ってくれたのか……。
    私には駅名どおりの少年に思えて、仕方がなかった。
    尖っていた私の心はやさしくとろけた。
     
    ガタゴト、ガタゴト、ガタゴト……、振動が心地よい。