川上恵(沙羅けい)の芸術村
 
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深爪


            
  「夜に爪を切ったら、親の死に目に逢われへんねんで」
   祖母が嫌ったあの言い伝えは、本当なのか、今も気になっている。
 
   子供の頃の私は痛々しいまでに深爪だった。平べったく不恰好な爪は小さな蜆貝のようで、
   短い指先をいよいよ短くみせている。

   その爪先が少しでも伸び、間に黒い汚れがうっすらとでも見えようものなら、
   潔癖性の母は、そそくさと裁縫箱から握り鋏を取り出した。
   そしてひんやりと冷たい指で、癇性なほど私の爪を短く切るのだった。
  「そんなに短こうしたら痛いやんか」
   私が手を引っ込めようとすると
  「爪の間に黴菌がたまったら、病気になるから清潔が肝腎。
   それに学校で、爪を切っているかどうかの検査もあるでしょ」

   使い慣れた握り鋏はパチッパチッと、小気味のよい音を立てながら、
   私の爪を真っすぐに切ってゆく。
   親指だけは硬いのか、小指や薬指に比べ少しだけ力を入れる。
   和裁に堪能な母は、爪切りを使わない。
   大抵のものは手の平に馴染んだ小振りの鋏で用をたす。
   そのたび、根元についている小さな鈴がチリリと揺れた。
   直線的に一気に切られた十本の爪は、どこか羞かしげで、ますます不細工で、
   私を悲しくさせる。
   指先は痛いような、こそばゆいような妙な感覚だ。
   おまけに爪の奥に潜んでいたピンク色の皮膚が、わずかに顔を覗かせている。

  『まるで毛を剥がれた因幡の白兎みたい』
   そのたび私は丸裸になった兎を思い出すのだった。
   そして、どうかした拍子に、多分小さな傷が原因だろうが、
   深爪からヒョウソになったりした。
   そんなことが何度か続いて、私の爪を切るのは何時の間にか父親の役目となった。

   新聞紙を電灯の下に広げ、めえちゃんと父が私を呼ぶ。父が爪を切ってくれるのは、
   爪が柔らかくなっている風呂上がりと決まっていた。
   私は指を大きく広げ、父の前にひらひらと両手を差し出す。

  「指が太くて短いのは器用な人の手。めえちゃんの手はええ手や」
   手を撫でながら、さり気なく私のコンプレックスを、繕ってくれる。
   そして、爪切りで楕円のカーブをつけながら、丁寧にゆっくりと爪を切っていく。
   切り落とされた湯上がりの透明な爪は、微かな音をたてながら新聞紙に飛び散った。

   女の子はあんまり痛々しいのや、四角四面過ぎるのは可愛げがない。
   爪もそうや。ちょっとだけ白い部分が残ってる方が格好が良いと、
   ヤスリを使って愛しそうに爪を磨き上げる。
   爪の先をほんの一ミリほどの三日月が縁取っている。
   そのほどの良さは父ならではのものだ。
   ほんの一ミリの差で、窮屈に見えていた爪が伸びやかでしなやかになった。
   短い指先は、ほんの僅か女の子らしく見栄えがよくなった。
   私はいっぱしの女性になったようで、心が華やいだものだ。

   そんな父娘を横目に眺めながら祖母は例のごとく、夜に爪を切ったら、
   親の死に目に逢われへんねんでと、決まり文句を言い、小さくため息をつく。 
  「そんなの迷信、迷信」
   父の手は大きく暖かで、私はいつまでも心地よく指先を任している。
   ラジオからは澪標の鐘がなっている。 

   その後しばらくして両親は離婚をした。

   祖母の心配どおり私は父の死に目に逢う事はできなかった。
   夜に爪を切ったせいだろうか……