川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                          どうでもいい話


     突然弟が、
     「俺、お釈迦さんていけずやと思うなあ」と言った。 
     どうして? といぶかる私に、
     「天上から下ろす助けの綱が、細い蜘蛛の糸というのが気に入らん。なんで何千人、何万人
     ぶらさがっても千切れん太いロープを、垂らしてやらへんのや。少なくとも仏さんの頂点に
     立ってる人は、人を試したらあかんのと違うか。どう考えてもやり方が汚い。せこすぎるやないか、
     気にいらん!」

     「芥川龍之介の蜘蛛の糸やね」
     還暦の声を聞いたというのに、弟には大人と子供が同居しているところがある。
     そのうえ天邪鬼なのだ。そういう私も、人のことは言えないが。

     学生の頃、この小説を読んで、辛くて辛くて仕方がなかった。
     お釈迦様が胡散臭く感じられたものだ。
     子供心に蜘だけは絶対に殺すまいと思った。そして誓ったものだ。
     地獄で喘いでいる私の頭上に、生糸のような蜘の糸が下りてきたとして、たとえ後から罪人が
     鈴なりになって登ってこようとも、決して声をたてないでおこう。
     お釈迦様のやり方は分かっている、糸は絶対に切れないのだから。
 
     どうしても叫び声が出そうになったら、清水の舞台から飛び降りる覚悟と勇気をだし、
     「皆さん、ご一緒に!」と、お釈迦さまに聞こえるように叫ぼう。
     そうだ、それより下を振り向かないことだ。
     不安の種は知らないほうがいい。堅く目をつむり、耳を塞ぎ、口を閉じ、
     ただただ天上をめざそう……と。

     中年になった今も、その決意は崩れていない。
     現金なもので他の虫は殺しても、蜘だけは一匹たりとも殺めていない。
     極楽にいける自信のない私は、細い糸に一縷の望みを託しているのだ。
 
     「その点、鬼子母神なんて人間的でええな」
     スルメをしがみながら弟はまだ、訳の分かったような、分からないようなことを言っている。
     神様なのに人間的というのも妙だと思いつつも、そうねと私は相槌をうつ。
     ほんの一瞬、無条件な優しさ、完璧な愛ってなんだろうと、殊勝なことを考えながら、
     「あんまりきつうにスルメ噛み切ったらあかんよ。前歯、欠けるから」
     私は姉らしく注意をする。弟はコクリと素直に頷いた。




     例によって突然、弟が「花咲か爺さんの唄を歌ってみて」と言った。
     何をまた薮から棒にと言いつつも私は歌う。

     “う〜らの畑でポチがなく〜  正直じいさん 掘ったなら
          お〜ばん こば〜ん  ザ〜ック ザ〜ック ザックザック”

     不思議なもので、昨日今日の事は哀しいくらいに忘れるのに、何十年ぶりかに歌う
     『花咲か爺さん』はすらすらと滑らかだ。
 
     その唄、歌ってなんとも思わんかと何時もの如く、ややこしい事を言い出した。
     あげくの果てにはもう一度歌わされる羽目になった
     “う〜らの畑で ポチがなく……”
     「そこ! そこ、おかしいと思わへんか?」
     「……?」
     「犬、犬の名前!」

     そういえば、絵本で読んだ花咲か爺さんの犬の名は確か、しろだった。
     「正直爺さんとこの犬は、白い毛の大きな秋田犬や。なんでコロコロと犬の名前が変わるねん。
     日本の昔話に片仮名のポチはいかん」
     またまた天の邪鬼が顔を覗かせる。

     「確かに!」。片方の目から鱗が落ちた。
     何の気なしに絵本を読み、唄を歌っていたのだ。
     それにしても、どうでもいいこと、非生産的なことには妙に長けている弟だ。
     実生活にどうしてこのセンスがでないのか不思議である。
     そう思いながらも『どうでもいいこと談義』が長々と続く。

     江戸時代の犬の名前って、どんなだったのだろう……、コーヒーを飲みながら弟に話してみる。
     「黒犬はクロ、白犬はシロ、斑はブチ、タロウにジロウ、雌犬はハナ。まあこんなもんと違うか。
     ほかは皆、名無しのごんべえ」 
     「シンプルでええねえ。まちがっても、メリーやエリザベス、ジョンなんていなかったよね」
     どこまでも妙な姉弟である。
 
     「実はポチの名前の由来があるねん。この唄を作ったのはヨーロッパ人で、
     当時、ヨーロッパではポチという名前が流行っていたらしい」
     最後にそれとなく得意げに蘊蓄を傾けるのも、どこか子供っぽく弟らしい。
     結局はここの所を披露したかったのだと見抜きつつ、姉は気付かぬ振りをする。

     姉弟は何歳になっても、弟が世間に通用する大人であろうとも、
     産まれた時の歳の差は一生つきまとう。決して縮まりはしない。
     二杯目を啜る弟に、「コーヒーにミルクを入れないと、体に悪いよ」
     私は姉らしく注意をする。
     弟はハイ、ハイと返事をする。