川上恵(沙羅けい)の芸術村
 
ホーム  エッセー  旅  たわごと  出版紹介 

河内再発見       

私の愛した遊園地たち

 

小学校一年生の春の遠足は、玉手山遊園地だった。五十年以上も昔の事だ。息子の初めての遠足も玉手山だった。

玉手山遊園は明治四十一年に開設された西日本最古の遊園地で、日本では東京の花やしき遊園に継ぐ古さである。 近鉄道明寺駅を降り、石川に掛かる赤い吊り橋を渡り二十分ほど歩くと、小さなゲイトが私たちを迎えてくれた。春には桜の花で全山が桃色に染まり、霞みが棚引いているようだった。遊園地は子供達だけのものではなく、花見の頃になると一升瓶片手の小父さんや小母さんたちで賑わった。

 ゲイトを潜ると申し訳程度の動物園があり、私たちは孔雀が羽を広げるのを、いまかいまかと待ったものだ。だがなかなか孔雀は羽を広げない。低い柵の内には兎や山羊、リスなどが放し飼いにされ、子供達はそれらを抱き上げ頬擦りをする
小さな汽車が園内の片隅をゆっくりと走る。若い父親が子供を抱き汽車に跨る。父親も母親も童心に帰っている。贅沢ではないが、幸せで穏やかな時間がそこにはあった。

お粗末な作りのお化け屋敷。おどろおどろしいお化けに混じり、一つ目小僧や傘お化けなど愛嬌のある妖怪もいて、怖さ半分可笑しさ半分だった。幽霊の白い衣は薄汚れ、頭に付けた白い三角の布は、もつれた長い髪に絡み、ずれている。スピーカーからはヒュードロドロと、お化けに付き物の効果音が流れていた。だが、割れた音は遠くまで届かない。     

小高い山を登ってゆくと昆虫館があり、そこで私は紋白蝶や揚げ羽蝶の他にもブルーや色彩鮮やかな蝶の存在を知った。モルフォ蝶は作り物のように美しかった。世界はなんと広いのかと知った瞬間でもある。館内はナフタリンのような鼻を刺す匂いに包まれていた。

頂上の野外劇場では縫いぐるみが子供相手に踊っている。手の届きそうな低い空の下では、観覧席が九つしかない、玩具のような観覧車がゆっくり回っている。
お酒に酔い赤い顔をした小父さん達が茣蓙(ござ)に車座に座り、歌ったり踊ったりと子供達に負けず楽しそうだった。大人も子供も楽しめる許容量の大きい遊園地だった。

そんな玉手山遊園は平成十年五月三十一日に閉園された。感慨と寂しさで一杯である。

いつも傍にいてくれた友人以上恋人未満の男性が去ったような寂しさを感じた。ちょっと待ってよ、もっと大事にするから、優しくするから、という気分だ。心にポッカリと穴があいた。

閉園の日、私は愛しみながら遊園地と最後の瞬間を過ごした。
小学生の時、女学生の頃、子育て真っ只中の時、玉手山遊園地は夫々に違う表情で私を迎えてくれた。ほのぼのとした安らぎを与えてくれた玉手山遊園は、現在、柏原市の公園として憩いの場となっている。

 高学年の秋の遠足は「ひらかた菊人形」と決まっていた。リュックを背に乗る京阪電車は、私たちを未知の土地へと運んでくれる。枚方パークは馴染んだ玉手山遊園に比べ、随分大きく立派に見えたものだ。玉手山が普段着の遊園地なら、枚方パークはちょっとよそ行きの遊園地だった。子供心にも菊の爽やかな匂いで息苦しいほどだった。
そんな菊人形も、菊作り師や菊師の老齢化によって、平成十七年の「義経」が最後となった。五条大橋、壇ノ浦などなど、どの場面も豪華絢爛で人々を陶酔させる。 

一方、見る分には美しい菊人形だが、係わる人達の苦労は並大抵ではない。テーマを決め、下絵を描き、夏の暑い最中(さなか)での菊づくり、人形の顔つくりや骨組みつくり、最後に菊師が人形に衣装を着せるまで、一年以上の歳月を要するという。
そして会期中は十人ほどの菊師が、菊の着せ替えを頻繁に行う。人の心をなごませ癒すには、手間暇がかかるものなのだ。機械化のおよばない手作業、まさに手仕事である。

 明治四十三年に第一回が開催され、以後九十六年間続いた大阪の秋の風物詩。連日、多くの人達が別れを惜しみ、菊人形館の前は長蛇の列だった。人は失くして初めてその大切さに気付くのだ。
 遊園地はいまやテーマパークと名前を変え、ほっこり癒される空間からハードな刺激を求め、絶叫が木霊する場所へと変わってしまった。幼児や老人がのんびりと遊べる、小さな可愛い遊園地がほしいものだ。

玉手山、菊人形、そして、あやめ池‥‥。思い出の場所がどんどん消えていく。私の昭和が消えてゆく。寂しい限りである。有難う、ご苦労様でした。私の愛した公園たち。